儒学者で多彩な博識の持ち主「林羅山」とは? ─徳川家康の学者ブレーン─
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第13回】
学問好きであった徳川家康(とくがわいえやす)は、学者をも自らのブレーンに組み込み。徳川家のために活用した。当代一流の学者であった林羅山(はやしらざん)の教えは、徳川家を屋台骨となる政治思想や家臣たちの道徳心まで言及した。学者ブレーンの活躍を解き明かしていく。

林羅山は徳川家康から第4代将軍家綱までに仕え、多くの儒書や史書を残した。 写真は岐阜県下呂温泉にある林羅山の像。
家康にとって軍事・財政・民政など天下を治めるために直接に必要な部門と異なり、脇を固める、あるいは知識を備える、といった意味で重用したのが、学識者ブレーンであった。宗教者の南光坊天海(なんこうぼうてんかい)・金地院崇伝(こんちいんすうでん)などはその代表的存在だが、儒学者では林羅山(道春/どうしゅん)が筆頭であった。
羅山は、朱子学(しゅしがく)派の儒学者で後には幕府の儒官となり、林家の祖でもある。京都生まれの羅山は、幼少の頃から秀才として謳(うた)われ、建仁寺で仏教も学んでいるが僧籍には入らなかった。その後も多くの知識人・学者から儒学に親しみ、多くの学問を学び続けた。
儒学に打ち込むうちに「宋学(そうがく)」と呼ばれた朱子学に大きな興味を持ち、その内容について研究を深めていった。慶長9年(1604)に生涯の師となる、当時の日本一の儒学者藤原惺窩(ふじわら・せいか)に出会う。羅山は惺窩から学問ばかりでなく精神的にも大きな影響を受けた。しかし、羅山の「速読」は師匠・惺窩を驚かせた。羅山は「1目で5行ずつ読む」という速読法を実践し、しかも内容はすべて覚えているという凄さだった。
惺窩は、自分自身が誘われても拒んできた家康への仕官を「この男にさせよう」と考えた。惺窩が推挙してきた羅山を、家康は京都・二条城で会った。この時、羅山は23歳。若い家康ブレーンの誕生であった。
面白いのは、仕官した翌年にイエズス会の修道士(日本人)、イルマン・ハビアンと行った「地球論争」である。イルマンの「地動説」と「地球球体説」を否定した羅山は、自らの考え方であった「天動説」と「地球方体説」を主張したという。
また、秀吉(ひでよし)と異なり朝鮮との友好を打ち出した家康により開始された朝鮮通信使の使節団の来訪に際して、羅山は筆談で応じて家康を唸(うな)らせた。これ以後に家康は、羅山に儒学だけではなく、様々な学問、幕府の文教政策、さらには外交面も担当させることになった。
羅山の家康への功績の1つに、大坂の陣を引き起こすための「難癖付け(方広寺鐘名事件/ほうこうじしょうめいじけん)」に一役買ったこともある。慶長19年(1607)、方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に記された銘文「国家安康」「君臣豊楽」の文言を、金地院崇伝と共に、徳川家を呪詛(じゅそ)する言葉として問題視する意見を家康に献じた。さらに羅山は文言の中の「右僕射源朝臣(うぼくや・みなもとのあそん)」を「源朝臣(家康のこと)を矢で射る」という意味だとした。「右僕射」とは本来「右大臣」を示す唐(中国)名である。家康への追従の最たるものだが、これが大坂の陣のきっかけになった。
羅山は、家康ばかりでなく秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)にも仕え幕府政治に深く関わった。毀誉褒貶(きよほうへん)のある羅山を称して「徳川幕府の御用学者」とする見方が大半を占めるが、実のところは「徳川幕府の百科全書派(博識学者)」であったとするのが正しいであろう。羅山は明暦3年(1657)1月に死亡。74歳の長命を生きた儒者であった。