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信長や義昭を困惑させた信玄の「撤退」

史記から読む徳川家康⑱

 敗戦の知らせが浜松城に伝わると、留守居役を務めていた夏目吉信(なつめよしのぶ)が手勢を率いて家康のもとに参陣。一刻も早い帰城を勧めた。おめおめと撤退するのを渋る家康に対し、自身が身代わりになると申し出て、25騎を引き連れて武田軍と交戦。その末に討死した(『大三川志』)。

 

 家康は馬上から弓を射かけるなどして武田軍の厳しい追撃に応戦。命からがら、浜松城に帰陣を果たした(『松平記』『信長公記』)。

 

 帰還した家康は、湯漬(ゆづけ)を三杯おかわりした後、高いびきをかいて寝てしまった。これを見た家臣たちは、大敗北を喫した後なのになんと度量の大きい事か、と感心したという(『大三川志』)。

 

 この日の夜、武田軍は犀ヶ崖(さいががけ/静岡県浜松市)に陣を張り、首実検を行なった。そこで大久保忠世(おおくぼただよ)は鉄砲隊による夜襲を決行。完敗した三方ヶ原の戦いで一矢を報いたのだった(『三河物語』)。

 

 戦前から信玄は、若武者ながら「海道一番ノ弓取」(『東武談叢』)と家康を高く評価しており、犀ヶ崖での夜襲についても「これほどの負け戦ではこんな強襲はむずかしいのに、さてさて今夜の夜襲はすごかった。勝つには勝ったが手ごわい敵だ」と感嘆している(『三河物語』)。

 

 家康の敗北を受け、室町幕府十五代将軍・足利義昭は、信玄に織田・徳川との和睦を提案している。ところが、信玄はこれを拒否。信長も家康も滅ぼして天下静謐(てんかせいひつ)に努めると返信している(「醍醐寺理性院文書」)。この返答に驚いた義昭は、京から退去しようとしたらしい。

 

 同月24日、武田軍は三方ヶ原の北西にある刑部(おさかべ/静岡県浜松市)に陣を移動。ここで年を越すこととなった(『甲陽軍鑑』)。信玄はここで、余勢を駆ってこのまま浜松城を攻めるかどうかをずいぶん迷っていたという(『当代記』)。

 

 同月28日、信玄は、信長打倒で共闘していた朝倉義景(あさくらよしかげ)に対し、1000人余りの兵を討ち取り、三方ヶ原の戦いに勝利したことを報告。同時に、義景が冬の訪れを前に近江から越前に帰陣したことを激しく非難した(「伊能文書」)。どうやら信玄は、義景と協力し、織田・徳川連合軍を東西から挟撃しようと目論(もくろ)んでいたようだ。信玄は、義景によって信長を討ち果たす絶好の好機を逃した、と怒ったのだとされる。

 

 翌1573(元亀4)年1月に、信玄は討ち取った平手汎秀の首を送り、信長と断交することを通告。これに対し、信長は家康と手を切ることを伝えたが、信玄は聞き入れなかったという(『甲陽軍鑑』『三河後風土記』)。

 

 同年111日、武田軍は三河に侵入し、野田城(愛知県新城市)の攻撃を開始(『武徳大成記』『松平記』)。武田軍に惨敗したばかりで家康からの援軍が期待できないなか、城主の菅沼定盈(すがぬまさだみつ)はひと月ほど籠城戦を展開。家康は1月下旬か2月上旬に浜松城を出陣し、野田城救援に向かったが、武田軍には手も足も出なかったという(『松平記』)。そして同年216日に定盈は降伏。野田城は陥落した。

 

 武田軍が野田城を後にしたのは翌17日のことだったが、3月には野田城から約10km東に位置する長篠城の普請に当たっている(『当代記』)。つまり、家康の嫡男である信康(のぶやす)の守る岡崎城に向かうどころか、逆戻りをしたことになる。破竹の勢いを続けていた武田軍は、長篠城に滞陣を続けたまま、しばらく動きを見せなくなってしまったのである。

 

 なお、同年213日、義昭は信長に敵対する意思を表明(「土井家文書」)。本願寺や浅井・朝倉連合軍を巻き込んだ、いわゆる信長包囲網が構築されようとしていたが、その中心勢力と目された信玄が突如、予想外の動きを見せたことは、信長打倒を期す勢力には大きな誤算となった。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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