徳川家康を支え江戸・京都町奉行を務めた情報収集者「板倉勝重」とは?
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第6回】
政治・経済的にも当時最大の都市であった京都の行政トップをつとめた板倉勝重(いたくらかつしげ)。行政官としての手腕とともに、いまだ向背さだかでない西国大名の監視、朝廷対策で活躍した。知られざる切れ者・板倉勝重の事績に迫る!

敵対する大名たちの情報収集・監視など諜報家として恐れられた板倉勝重だが、柔軟な裁定で名奉行としても名を馳せた。伊賀守は勝重の官位。「徳川二十将図」出典/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
初期徳川政権の町奉行には、町人たちの安寧(あんねい)を司(つかさど)り治安維持に当たるなどの警察的な役割のほかに、その地の情報を収集して家康に伝える役割も持っていた。板倉勝重(1545~1624)もその1人であった。勝重は、三河額田郡生まれ。父・好重(よししげ)の跡を継いで家康(いえやす)に仕えた。今川氏が滅び、武田氏が滅びて家康が駿府に移ると、勝重は駿府の町奉行に任じられた。さらに家康の関東入国後は、武藏国(むさしのくに)新座群・豊島郡で併せて1千石を与えられ、関東代官・小田原地奉行・江戸町奉行を務めた。
これは、勝重という人物が「公正無私」であり、信頼に足ることが家康は誰よりも分かっていたからだが、同時に家康の参謀・本多正信(ほんだまさのぶ)の信任も得ていたのであった。
勝重について『藩翰譜』は「事一つとして延滞無く、物一つとして廃欠なく、天下みなその能力を称せずという者なし」と評し、町奉行としての裁判ぶりについては『徳川実記』が「すべてこの人の庁に出て裁断受けし者は、敗訴する者も自分の罪を悔いて奉行(板倉勝重)を恨まないという。この1事においても、その才能の優れているのは推して知るべしであろう」と書いているほどであった。
関ヶ原合戦の翌年、慶長8年(1601)には三河3郡6600石の領地を与えられた。また、本多正信の推挙もあって、勝重は京都町奉行(後の京都所司代)にも任命された。この京都所司代の仕事は、町づくりや支配組織の整備ばかりでなく、朝廷を守護し、公家及び西国大名を監視する重要な仕事があった。この監視には、当然の事ながら大坂の豊臣氏(秀頼)も含まれている。というよりは、その後の家康の動きを見れば、この豊臣家とその支援者(西国大名)の監視こそが、勝重の最大の役割だった可能性もある。
その意味では、征夷大将軍になった前後の家康にとって、最も大事な「情報収集役(ブレーン)」は板倉勝重であったといえよう。勝重は京都所司代に就任する際に、妻に相談し、しかも「賄賂・その他の災難」がすべて女性から起きている事を説明して、一切夫のやることに口出ししないことを約束させたという。
勝重が家康からの信頼が厚かった証拠は、家康の征夷大将軍就任後に近江・山城国に領地を加増され、1万6600石の大名に列したことや、後には従四位下・侍従の官位を与えられたことである。この時点で侍従以上の官位を与えられたのは、徳川政権では勝重を入れて3人だけであったという。
大坂の陣の発端となった「方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件」では本多正純(ほんだまさずみ)らとともに豊臣家への強硬策を上奏し、さらには大坂方と内通していた大名家の摘発も行った。また、大坂の陣後には「禁中並びに公家諸法度」を施行すると、朝廷がその実施をスムーズに行うように指導と監視に当たった。すべて家康の意を訂した行政措置であり、情報収集の結果であった。
勝重の引退後には嫡男・重宗(しげむね)が京都所司代となるが、勝重・重宗父子の功績によって、徳川政権初期の京都所司代の地位は非常に高くなったという。勝重は、寛永元年(1624)に79歳で死去。