「三方ヶ原の戦い」は偶発的に起こった合戦だった?
史記から読む徳川家康⑰
同月18日、家康を相手に信玄が合戦を始めたことに対し、上杉謙信(うえすぎけんしん)は「蜂の巣に手を挿すような無用なことをしでかした」と言及。来春には信玄に「汗をかかせられる」とも述べており、宿敵・信玄に対し、何らかの軍事行動を起こすことを示唆している(「河田長親宛上杉謙信書状」)。
同年11月27日、武田軍の山県昌景(やまがたまさかげ)が二俣城攻撃に加わった(「山県昌景書状写」)。
二俣城は断崖絶壁に囲まれた上に高い土塁に守られ、西に天竜川、東に二俣川の流れる天然の要害であった。力攻めで一気に落とすには難しい城だったようで、山県昌景と馬場信春(ばばのぶはる)は、水を汲み上げるのを妨害し、水の手を絶つ作戦を敢行したという(『三河物語』)。
同月下旬、武田軍に二俣城を包囲されたとの知らせを受けて、信長は佐久間信盛(さくまのぶもり)、平手汎秀(ひらてひろひで)、水野信元(みずののぶもと)を大将とした援軍を派遣している(『信長公記』)。
同年12月19日に城主の中根正照(なかねまさてる)が降伏して二俣城が陥落。これを受け、徳川方から武田方に鞍替えする遠江の地侍が続出した。
攻略した二俣城の普請をした信玄は、同月22日に三方原へ軍勢を進めた(『当代記』)。籠城作戦を取ろうとしていたところ、浜松城下を素通りする武田軍を見て、家康は「多勢が自分の屋敷の裏口をふみ破って通ろうとしているのに、家のなかにいて、でてとがめだてしない者があろうか」と、家臣が止めるのにもかかわらず出撃を強行した(『三河物語』)。
ドラマでも描かれたように、これは三方ヶ原の戦いにおいて広く知られる逸話で、似たような記述が後世の編纂物に見られる。
例えば、家康の出撃を止めたのは家康の家臣ではなく、信長からの援軍諸将だったとするもの(『落穂集』)、同じく、信長の援軍諸将に信長の命によるものだから出撃してはならないと止められたとするもの(『武徳大成記』)、物見に出ていた家臣の鳥居四郎左衛門(とりいしろうざえもん)に武田軍と戦をすべきでない、と進言され、激怒した家康と言い争いになったとするもの(『三河記』)など、記述に多少の差異はあるものの、反対する声が多かったなか、家康が出撃を押し切ったとする構図は共通している。
一方、信長の事績をまとめた『信長公記』では、二俣城を陥落させた後、堀江の城(静岡県浜松市)に進撃した武田軍を食い止めるべく、家康が出撃したと記されている。
また、三方ヶ原に向かった武田軍を偵察するために人員を派遣したところ、武田軍と小競り合いが始まってしまったため、偵察隊を救援すべく家康が出陣すると、不慮に合戦が始まったとの記録もある(『当代記』)。
戦いが始まったのは日没に近い時間帯だったと考えられていることもあり、近年では、信玄の策略によって家康が誘い出されて始まった戦いというより、偶発的に勃発した戦いだった、とする見方が有力視されている。
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