徳川と豊臣の間で苦しんだ加藤清正の「忠義」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第21回
■先送りされてきた領国経営の課題
肥後は土地が肥沃なため国人層の力が強く、統治が難しいと言われていました。かつては佐々成政による検地が原因で、大規模な肥後国人一揆が起こった経緯がありました。
清正は一揆対策として、熊本城の改築など軍事面の強化を優先しています。また有事に備え領国防衛のため複数の支城を設けて、家臣たちに半独立的な運営を行わせています。ただ、この制度は家臣たちの発言力を高める事になり、逆に当主権力の脆弱化につながりました。
そのため清正の死後に、牛方馬方(うしかたうまかた)騒動と呼ばれる重臣たちの派閥争いが起こり、二代目忠広の手では手に負えず、お家騒動として幕府の裁定を受けることになります。
また財務面においても、文禄慶長の役への動員や名護屋(なごや)城の普請に続き、関ヶ原の戦いへの参戦など領民への負担は重くなったままでした。
関ヶ原の戦い後、清正は領民の夫役の一時停止などで負担軽減を図りつつ、支城の整理を行い経営の改善を図ろうとしています。また、得意とする土木技術を用いて治水工事や灌漑施設を整備し、領内の農作物の生産性向上を図っています。
しかし、豊臣家の蔵入り地を残したままだったり、幕府の天下普請に進んで協力したりしたため、財務面での改善はあまり進まなかったようです。土木工事なども、徴用された領民に給金を支払ったため財政的負担となっています。
次の忠広の代で改易となったのは、本人の気質の問題もあったようですが、清正時代からの課題でもある当主権力の脆弱さや不安定な領国経営を幕府が危険視した事が理由だと言われています。加藤家の後に入封する事になった細川忠興(ほそかわただおき)は、課題が多い肥後国への加増転封(てんぽう)について素直に喜べなかったようです。
■清正の問題点でもあり魅力でもある「忠義」
清正は恩義に報いるため尽力する人物だったため、豊臣家にも徳川家にも誠実に仕えています。幕府体制下での豊臣家の存続と加藤家の安泰に頭を悩ませ、『論語』の中に答えを求めようと愛読していたとも言われています。
ただ、どちらの希望も叶いませんでした。
現代でも、「両方を立てれば身が立たぬ」という諺があるように、両方に「忠義」立てするあまり、組織内での対立で板挟みになり最終的に自分が追い込まれ苦しむことになる事は多々あります。
もし清正が豊臣家への「忠義」を捨て、徳川家だけを意識しながら家中の課題解決に集中していれば、加藤家は大名として存続できたかもしれません。
しかし、「忠義」に厚く心を悩ませるところが清正の魅力でもあり、熊本だけでなく日本中の人々から今でも愛されている理由の一つだと思います。
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