徳川と豊臣の間で苦しんだ加藤清正の「忠義」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第21回
■「忠義」を重んじる加藤清正

熊本城(熊本県熊本市中央区)にある加藤清正公像。長烏帽子と甲冑に身を包んだ姿に威厳が漂う。
加藤清正(かとうきよまさ)は、秀吉(ひでよし)の小姓から身を立て、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで名を知られ、関ヶ原(せきがはら)の戦いでの功績により肥後52万石の国持大名となった英雄的なイメージの強い武将です。
清正は豊臣政権の蔵入り地の代官や上使として、交渉や事務処理を担う文官としても活躍しており、また築城や灌漑(かんがい)用水の整備など土木工事にも優れていた多才な人物です。そのため、文禄慶長(ぶんろくけいちょう)の役(えき)では敵城の攻略だけでなく、外交面においても小西行長(こにしゆきなが)と争うように交渉を進めています。
秀吉の死後は、徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属していますが、豊臣秀頼(とよとみひでより)と家康との会見の仲立ちをするなど、豊臣家の存続のためにも尽力しています。しかし、清正の死後、加藤家ではお家騒動が起きるなど家中が安定せず、二代目忠広(ただひろ)の代で改易となります。
この改易については、清正が「忠義」を優先しすぎた事も遠因の一つだと思われます。
■「忠義」とは?
「忠義(ちゅうぎ)」とは辞書によると「私欲をさしはさまないで、まごころを尽くして主君や国家に仕えること。忠節」または「主君や国家に対し嘘偽りのない心を持って尽くす様子」とされています。「忠誠」も「嘘偽りのない心を持って尽くす様子」という意味があるため混同されがちですが、「忠義」は対象が主君や国家であるのに対し、「忠誠」はその限りではない点に違いがあります。
民主主義の時代である現代では「忠誠」の方が妥当ですが、戦国時代で真心を持って主君に仕えるという意味では「忠義」が適切でしょう。清正は「忠義」によって身を立てていく一方で、頭を悩ませられる事になります。
■加藤清正の立身出世の事績
加藤家は尾張国中村を出身とし、父は刀鍛冶(かたなかじ)であったと言われています。そして、豊臣秀吉の母大政所(おおまんどころ)との血縁関係により、秀吉の小姓として仕えるようになります。秀吉の中国経略にも従い、山崎の戦いにも参加しています。
1583年の賤ヶ岳の戦いでは、敵将を打ち取る武功を評価され3000石を与えられました。この功績により、福島正則(ふくしままさのり)や加藤嘉明(かとうよしあき)と共に賤ヶ岳の七本槍のひとりとして数えられています。1586年の九州平定後は、肥後国人一揆(ひごこくじんいっき)を経て、肥後半国19万5000石を拝領し大名となり、その後の文禄慶長の役では九州の諸侯を率いる立場となり2度に渡って出征しています。
関ヶ原の戦いでは東軍として九州で行長の宇土城(うとじょう)を開城させるなど活躍し、戦後に肥後52万石の国持ち大名となります。しかし、清正が急死した7年後に加藤家は御家騒動を起こし家中の統制が乱れるようになり、1632年に突如として改易されてしまいます。
■豊臣家と徳川家への「忠義」
清正は存命中、秀吉から厚い信頼を得ていました。
主要な戦への参加だけでなく、後方支援や蔵入り地の代官、上使などを任されていますし、佐々成政(さっさなりまさ)が治めきれなかった肥後の統治を任されています。
その後の文禄の役では鍋島家や相良(さがら)家を率いる二番隊を任されると、満州地方まで北上するなど、唐入りを成功させるため活発に行動をしています。明の参戦を受けて戦線が膠着すると、小西行長とは別のルートで講和交渉を行っています。ただ、この交渉は秀吉の意向を重要視したため決裂してしまいます。講和締結のために妥協や偽装も厭わない行長とは違い、清正は恩ある秀吉の要望を叶えるために腐心しています。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは東軍として九州での戦いで活躍し、徳川家康(とくがわいえやす)からその功績を認められて肥後52万石の国持大名となります。また、清正の妻には家康の養女を、嫡子忠広には徳川秀忠(ひでただ)の養女を妻に、娘の八十姫(やそひめ)は徳川頼宜(よりのぶ)の妻にと、徳川家との紐帯(ちゅうたい)を強めています。
しかし、家康が幕府を開いたことで、清正は旧恩ある豊臣家との板挟みになります。
清正は徳川家へ「忠義」を示すため、江戸城や名古屋城の普請にも積極的に協力する一方、豊臣家に対しては自領内にある3万石の蔵入り地を残したままで年貢を送り続けています。また、豊臣家の存続を考慮し、家康と豊臣秀頼の二条城会見を実現させています。
そして、豊臣家と徳川家の共存に頭を悩ませた心労からか、両者の会見からの帰国中に急死してしまいます。ただ、豊臣家と徳川家への「忠義」の裏で、領国の課題解決が進んでいませんでした。
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