家康も呆れた佐竹義宣の「律儀」さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第17回
■佐竹義宣の「律儀」さが減転封を招く

茨城県常陸太田市中城町にある、佐竹義宣が生まれた太田城(別名・舞鶴城)跡。
佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、北条家や伊達家との長年の抗争により培われた戦力を、関ヶ原の戦いで使うことなく転封されたことから、優柔不断な戦国武将というイメージが強いと思います。
徳川家康(とくがわいえやす)からの誘いにも応じず、石田三成(いしだみつなり)や上杉景勝(うえすぎかげかつ)からの誘いにも乗らずと、旗幟を鮮明にしないまま西軍が敗北するかたちとなります。結果的に、その不戦を理由として常陸54万石から出羽秋田20万石へと転封になります。
しかし、義宣は優柔不断ゆえに日和見的(ひよりみてき)な態度を取った訳ではありません。そこには、家康から「律儀」すぎると言われた義宣の性格に原因がありました。
■「律儀」とは?
「律儀」とは、辞書などによると「きわめて義理堅いこと。実直なこと。また、そのさま」とあります。
つまり、人から受けた恩義を忘れずに必ず返す義理堅い性格の事です。「律儀」は、自分がどのような状況に合っても恩義に報いようとする人に使われる言葉です。似たような言葉に「誠実」がありますが、こちらは「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま」とあり、「律儀」に非常に近い感じがあります。
ただ「律儀」と「誠実」の大きな違いは、後者には義理を守る事が含まれていない点です。「律儀」は物事の判断基準として、強い影響を与えます。義宣は、義理堅く恩義に報いようとする性格のため、関ヶ原の戦いでは板挟みになってしまいます。
■清和源氏の名門佐竹家
佐竹家は武田家と同じく清和源氏の流れを組む名門で、常陸を地盤として戦国大名化しました。室町時代には常陸の守護に任じられ、鎌倉府を支える関東八屋形に列します。北条家からの圧力や、一門内での抗争もあり、勢力を低下させていました。しかし、父佐竹義重(よししげ)の時代に、周辺の勢力を支配下に置き、南奥州へと勢力を拡大するまでに成長します。
北条家や伊達家と争う中、豊臣政権とは早い段階で誼を通じ、小田原征伐にも参陣します。その功績を認められ、常陸(ひたち)と下野(しもつけ)の一部を知行地として安堵されます。佐竹家は太閤検地(たいこうけんち)を経て常陸水戸54万石の大名として成長し、与力の岩城氏などを合わせると80万石近くの石高になり、豊臣六大将と呼ばれるほどになります。
その後、縁戚の宇都宮家の改易騒動に巻き込まれそうになりますが、石田三成の助言により連座を免れています。しかし、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が死去すると、豊臣政権内部で主導権争いが勃発し、佐竹家も巻き込まれていきます。
■三成から受けた恩義に報いる義宣
豊臣政権下において、義宣は三成に何度か助けられています。
まずは太閤検地では、義宣は三成の援助を受けて、所領を倍増させています。完全な集権化にまでは至りませんでしたが、これによって義宣の発言力は以前よりも増しました。
続いて、1597年に起きた宇都宮家の改易騒動です。これは宇都宮家の一門衆が浅野長政(あさのながまさ)の三男長吉を宇都宮国綱(うつのみやくにつな)の養子にする計画に反発した事が原因と言われています。この騒動に、縁戚関係の佐竹家も巻き込まれそうになりましたが、三成の助言により事なきを得ています。
義宣は、これらの恩義に報いるため、秀吉死後に起きた三成襲撃事件において、三成の救出を手助けしたと言われています。また、古田織部(ふるたおりべ)から家康に釈明するように言われた際には、「旧恩に報いただけだ」と言って断ったという逸話があります。
そして、関ヶ原の戦いにおいても三成の誘いに応じ、上杉景勝と共に家康に対抗する立場を取ろうとします。しかし、佐竹家中では意見が割れてしまいます。
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