家康の「将来性」を信じ切れなかった石川数正
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第15回
■当主の「将来性」にかける石川数正

松本藩主であった石川数正・康長親子が築いた松本城。現存12天守のひとつとして多くの人が訪れ、国宝としても指定されている。
石川数正(いしかわかずまさ)は、徳川家康(とくがわいえやす)が今川家の人質であった頃から側近として仕えていたものの、豊臣秀吉(とよとみひでよし)によって篭絡(ろうらく)されて出奔(しゅっぽん)した経緯があることから、節操のない武将のイメージが強いかもしれません。
しかし、数正は人質時代の家康に側近として仕え、桶狭間(おけはざま)の戦いにも参加し、弱小勢力であった家康の独立を支えています。徳川家中を二分する三河一向一揆でも、父と袂(たもと)を分かち浄土宗へと宗旨替えしてまで家康に従い、乱の鎮圧に貢献しており、その行動は一貫しています。
その後、数正は家康から厚い信頼を受けていたものの、小牧長久手の戦いの後、突如として徳川家を出奔し秀吉の直臣となります。
これには、家康の「将来性」の見極めが大きく関係していると思われます。
■「将来性」とは?
「将来性」とは辞書によると「将来が期待されるという見込み」または「将来の発展が見込まれる状態」とされています。
現代でも就職先を選ぶ際には、その企業や経営者の「将来性」を検討材料の一つとします。また、投資という視点でも、市場の「将来性」や事業の「将来性」を考える事は一般的です。
戦国時代のように一族の存亡が掛かるような環境では、所属する組織の「将来性」を見極め、進退を決めるのはとても重要な事です。当初、数正は家康の「将来性」を高く評価していたと思われます。
■石川数正の事績
石川家は、安祥譜代(あんじょうふだい)として古くから松平家に仕える家柄です。本来は数正の系統が本家でしたが、叔父の石川家成が家康の命により本家筋となっています。
数正は家康が今川家の人質として駿府にいた時から側近として仕えており、桶狭間の戦いでも家康と共に従軍しています。そして岡崎城への帰還後、織田家や今川家との外交交渉を担って活躍していきます。
活躍が認められた数正は徳川家の家老となり、西三河の旗頭として岡崎衆を任されます。また平岩親吉(ひらいわちかよし)と共に、家康の嫡子である信康の後見人として育成役も担います。秀吉が頭角を表すと、豊臣政権との外交を担当し、小牧長久手の戦いの停戦交渉を任されます。その際に、後の結城秀康(ゆうきひでやす)を人質として送り出し、停戦を実現させています。
そして、停戦交渉が成立した後、数正は突如として徳川家を出奔するのです。
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