直江兼続の戦略を阻んだ関ヶ原の「想定外」との戦い【後編】
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第12回
■想定外の結果に立ち向かう直江兼続

山形県米沢市の米沢城跡にある、上杉景勝と直江兼続の像。前立てに「愛」の字を掲げた兜を抱えている右側が兼続。
直江兼続(なおえかねつぐ)は上杉家の執政として、色々な事態を想定して、御家の舵取りをしていました。秀吉の死後、石田三成(いしだみつなり)たちと組んで、徳川家康(とくがわいえやす)に対抗しますが、複数の想定を超える事態により関ヶ原の戦いに敗れました。
一つ目は堀家による一揆の早期鎮圧、二つ目は最上の長谷堂城(はせどうじょう)での2週間もの足止め、最後は関ヶ原の戦いが1日で決着がついてしまうという想定外です。
この時、佐竹義宣(さたけよしのぶ)が動けなかったのも、想定外に含まれるかもしれません。
これらの事態については、兼続の想定が甘すぎたのかもしれません。上杉家の執政として、西軍が敗北した結果を受け入れて、上杉家の生き残りを図る必要があります。まずは上杉家が置かれている状況を冷静に把握する事が最重要課題です。
そして、想定の範囲を調整しながら数々の施策を打っていく事になります。
■戦後の情勢の見極め
関ヶ原の戦いで東軍が勝利しましたが、情勢はまだ不安定なものでした。今後、徳川家を中心にした政権運営を行うものの、豊臣家も未だに大坂に存在しています。豊臣恩顧の大名たちも数多く存在したままなので、家康の死や徳川家中での争いが起これば、再び戦乱が起こる可能性もあります。
兼続は再び戦乱が起こる可能性を踏まえつつ対処していきます。上杉家の存続には成功しますが、会津120万石から米沢30万石への大きな減封となりました。
財政面から考えると家臣を4分の1にまで削減する方が妥当です。
しかし、兼続は臨時雇いの者以外を召し放ちませんでした。譜代家臣だけでなく武田家や小笠原家や蘆名(あしな)家の旧臣であった外様家臣も維持しました。
これには二つの理由が考えられます。
一つ目は、改易を回避するための瀬戸際外交に必要な軍事力の確保です。徳川家から譲歩を引き出すための交渉材料として使うためです。島津家は徹底した瀬戸際外交を繰り広げ、最終的には所領安堵を引き出しています。
二つ目は、徳川幕府が安定せず再び戦乱が起こった時のための戦力維持です。最上家や伊達家など大国に挟まれた状態で、上杉家がイニシアティブを握るためにも、ある程度の兵を保有しておく必要があります。
ちなみに、同時期に大幅減封された毛利家も、家臣の多くを防長二州へ連れていっています。
兼続は、なるべく現状の軍事力を維持したまま領国の運営をする必要がありました。
■兵力を維持するための財政再建
兼続は多すぎる家臣を養うため、内政に注力していきます。まずは、新田開発や治水工事を行い米の生産量の拡大に着手します。結果的に、2代藩主定勝の時代で、表高30万石を実高51万石にまで押し上げる事に成功します。
さらに米以外の産業育成にも注力していきます。越後から青苧(あおそ)を取り寄せて、米沢でも栽培を奨励します。
そして、御用商人から流通や相場に関する情報を入手し、紅花(べにばな)、蝋(ろう)などの特産品の生産にも注力しています。
また、甲斐から鉱山師を呼び、領内の鉱山開発にも力を入れています。
多くの下級武士は、平時に農業、緊急時は兵として駆けつける郷士として城外に住まわせます。近代でいうところの、屯田兵(とんでんへい)のような役割を担わせて国境の防備を固めます。
兼続は郷士たちが自給自足で生活をしていけるように年貢を軽減するなどの配慮も行っていきます。こうして戦乱も想定した政策を進めていきました。
■時間の経過と共に想定範囲を修正
上杉家は家康との交渉役をしていた藤田信吉(ふじたのぶよし)たちを出奔(しゅっぽん)させてしまったため、幕府との外交ルートがか細い状態でした。そこで兼続は家康の側近本多正信(ほんだまさのぶ)の次男政重(まさしげ)を婿養子に迎えます。豊臣政権下での石田三成との外交ルートのように、幕府の中枢にいる本多正信との関係構築を図りました。
正信の助言により、10万石分の軍役免除を得る事ができるなど、幕府との外交ルート作りは功を奏し、上杉家の存続の目途が立ち始めます。
その後、政重は上杉家を離れ、前田家へ移り万石クラスの家老に就任します。その際に、上杉家や直江家の家臣たちを呼び寄せて、上級家臣の円満かつ円滑な再就職に貢献しています。
これも兼続と政重による人員削減策の一貫とも言われています。兼続は幕府権力の安定化を見て自身の想定の範囲を修正しつつ、幕末まで続く米沢藩の基礎を作っていきました。
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