福島正則の身を滅ぼした「自尊心」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第8回
■「自尊心」の塊のような福島正則

愛知県名古屋市中区の、堀川沿いに建てられた福島正則公像。堀河は徳川家康が名古屋城築城の際に、正則に命じて城の外濠として掘られている。
福島正則(ふくしままさのり)といえば、戦好きの武闘派で、猪突猛進(ちょとつもうしん)的なだけの武将というイメージがあるかもしれません。確かに、戦場において誰よりも武功を上げることに拘る面がありました。
加えて、暴力や酒癖の悪さに関する逸話も残っています。
一方で、領民のため年貢を状況に合わせる、治水工事などインフラ整備を行うなど、内政面に優れているリーダーとしての一面もあります。
豊臣政権下では、蔵入り地の代官や検地奉行を務めています。その後、関ヶ原での功績を評価されて芸備49万石の大大名となります。
しかし、最終的には越後魚沼(えちごうおぬま)2万石にて当地で死去し、御家は取り潰しとなります。これは正則の傲慢(ごうまん)な言動の数々が徳川幕府から疎(うと)まれていた事が原因だと言われています。
この傲慢な言動は、正則の「自尊心」の高さから出ていたと思われます。
■「自尊心」とは?
一般的に「自尊心(じそんしん)」は「自負心(じふしん)」と混同されがちですが、微妙に意味に違いがあります。
「自尊心」は国語辞典などによると、自分の人格を大切にする気持ちの事です。また、自分の考えや言動などに自信を持って、他人からの干渉を無視して品位を保とうする態度の事となっています。
自尊心はメンタルを健全な状態に維持するためにも必要ですが、逆に高すぎるとデメリットが目立ってしまいます。それは、人を見下す、自己承認欲求が強い、妥協しない、攻撃性が強いなどにより、周囲に不快な思いをさせるケースがあるからです。そのため「自尊心が高すぎる」というように、マイナスな使われ方もします。
一方「自負心」は自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う心の事です。そして、何事もやり遂げるという責任感が付随してきます。自分にストイックに向かうため、向上心の強さへと繋がります。
自負心が強いのは他者も認める高潔なものですが、自尊心が強すぎると傲慢さや驕(おご)りとなり、他者から嫌悪されます。
■正則の出世に影響を与えた豊臣秀吉との縁戚関係
正則は、尾張で桶屋を営む福島正信(まさのぶ)の長男として生まれたと言われていますが、詳細は不明です。諸説ありますが、正則の母が豊臣秀吉の母大政所(おおまんどころ)の妹であったとも言われ、秀吉とは縁戚関係にあり準一門の扱いだったようです。
その縁により秀吉の小姓として仕え、賤ヶ岳の戦いで一番槍をつけ、一番首として敵将を討ち取る武功を上げ、同僚の加藤清正(かとうきよまさ)や脇坂安治(わきざかやすはる)らを超える5千石を拝領します。その後も、四国征伐や九州征伐に参加し、その功績により伊予今治11万3千石を得て諸侯に列します。
文禄の役や秀次(ひでつぐ)事件の後には、尾張清州24万石を得ます。羽柴氏を下賜(かし)され、同時に侍従に叙任されます。これは石田三成(いしだみつなり)や浅野長政(あさのながまさ)より一段上の扱いです。そして、関ヶ原の戦いでは軍功第一と評され、安芸備後49万石の国持ち大名となります。大阪の陣が勃発するまでは、豊臣家と徳川家の融和に努めていたと言われています。
しかし、1615年の大阪の陣では、豊臣恩顧である事を警戒され参陣が許されませんでした。家康死後の1619年には武家諸法度違反により、越後魚沼4万5千石への減転封を言い渡されます。その後は長男忠勝(ただかつ)の死により2万5千石を返上し、正則の死後に福島家は取り潰されます。
■自尊心を醸成するライバルの存在
正則の出自は不明な点もありますが、当時としても身分が高いものとは言えませんでした。いち早く大名として立身できた要因としては、戦での武功も挙げられますが、秀吉との縁戚関係も大きかったと思われます。
そのため、豊臣政権内で自分の立場をゆるぎないものにするためにも、人一倍武功への拘りは強くあったと考えられます。
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでの一番槍もそうですが、関ヶ原の戦いの岐阜城攻めでの、過剰なまでの池田輝政(いけだてるまさ)との先鋒争いがそれを表しています。正則は常に、人よりも結果を出すことで、上司や同僚に自分を認めさせようと努力していたとも取れます。その結果、「自分が豊臣政権を支えている」という自尊心を成されていったとも考えられるのです。
また、正則は秀吉から厚い信頼を受けていた石田三成への対抗心も強かったように思われます。三成は同年代でもあり、嫉妬の対象だったのかもしれません。秀吉が三回目の唐入りの司令官として、正則と三成を考えていたのも何かの意図があったように感じます。
正則には、関ヶ原の戦いで敗れた三成へ傲岸(ごうがん)な態度をとったという逸話が残っています。ライバルであった三成を破った事、関ヶ原での功績第一等という家康から評価された事が、正則の自尊心を異常に高めてしまった可能性はあります。
しかし、その自尊心の高さは周囲と数々の軋轢(あつれき)を生みまそた。
■自尊心の高まりが生む軋轢
関ヶ原の戦いの際に、正則の部下と家康の足軽がトラブルになった件では、徳川家の責任者の切腹を求めて、最終的にはその要望を飲ませています。この時、家康は正則の利用価値を考え、渋々対応しています。
その後も、幕命による名古屋城の手伝普請(てつだいふしん)に際して、池田輝政に不平不満を口にして、加藤清正に「嫌なら謀反の準備をしろ」と嗜(たしな)められています。
家康の死後、正則は広島城を幕府の許可なく修繕した上、破却(はきゃく)の指示にも不十分な対応をとったために咎(とが)めを受けます。加えて、長男忠勝を人質として送る際にも「万事親次第」と無断で出発を遅らせます。
秀吉の縁者であり、関ヶ原の勲功第一という意識が、徳川秀忠の幕府に対して不遜な態度を取らせたのかもしれません。結果として、秀忠から越後魚沼への減転封を命じられます。
さらに正則の死に際して、幕府の検視役の到着を待たずに遺骸を荼毘(だび)に付してしまいました。これが正則の遺言だったのか、もしくは家臣がその自尊心を考慮したのか分かりません。
しかし、この件を罪に問われ、福島家は改易されます。
■自尊心のコントロールはどの時代にも共通する課題
正則のケースでは、自尊心の高まりがいつの間にか周囲と軋轢を生む原因となっていました。正則が改易される頃には、加藤清正や池田輝政のような同僚もすでに亡くなっており、高まり過ぎた「自尊心」を制してくれる存在がいませんでした。
もし、謙虚に幕府の御用を粛々と務めていれば、小規模ながらも大名として存続できた可能性はあります。
現代でも、自尊心が高すぎて周囲と軋轢を生み、出世コースから外される事例はよくあります。一方で、自尊心が低すぎる事もよくないとされます。これは精神的なものだけに、コントロールが難しいのが実情です。
ただ、正則の場合は、その自尊心の高さが人間臭さを生み、魅力的な戦国武将にしている面もあるとも思います。
ちなみに、正則は豊臣家の滅亡後、妙心寺で大阪の陣の死者を弔います。そこで、関ヶ原で西軍として改易された石川貞清(いしかわさだきよ)と対面しています。また、そこはかつてのライバル三成の嫡男重家(しげいえ)が出家した寺でもあり、このあたりが、正則の人間臭さに繋がっている気がします。