織田信雄と徳川家康の明暗を分けた「市場価値」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第5回
■自らの市場価値を高める努力が重要

信雄が居城とした清州城(写真は模擬天守)。それ以前まで居城としていた長島城が天正13年(1585年)11月の、天正地震で崩壊したため、以後は清洲城を改修し、居城とした。
織田信雄(おだのぶかつ)というと、英雄・織田信長の次男でありながら、本能寺の変の後の権力争いに敗れ、織田家を凋落させた武将というイメージが強いかと思います。
確かに第1次天正伊賀の乱で大敗し、信長から叱責を受けたように、軍事面においては才能がないようでした。小牧長久手の戦いにおいても、諸城を落とされて降伏してしまいます。
しかし、軍事面での評価が低くとも、信長の次男であり、織田家の当主という立場は非常に価値があるものでした。
信雄は小田原征伐後に三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五ヶ国、計120万石を得るチャンスを得ます。同時期に、家康も関八州250万石への移封の指示がでます。
この時、移封を断った信雄は改易され、応じた家康は大老となり、その後に大きな差が生まれました。
その違いを生んだのは能力の差もありますが、自分の市場価値を高める努力をしたかどうかにありました。
■市場価値とは?
人の市場価値とは、需要と供給で決まる人材の評価の事です。
専門性やスキル、実績、経験など、他者から必要とされるものであればあるほど、それを有する人材の評価は高まっていきます。逆に、それを有する人材が少なければ価値は高まりますし、多ければ価値は下がります。
そして、注意が必要なのは時期によって求められる要素や内容は変化します。例えば戦国時代であれば築城技術の需要は多く、それを有する人材の評価は高まります。
逆に江戸時代になると、築城技術の価値は下がり、新田開発や用水治水に関する技術の価値が高まります。
時代や状況によって、市場価値というものは常に変動していきます。まずは自分の市場価値を知り、需要に合わせて高める事が重要になるのです。
■織田信長の次男という価値
信雄が生まれた織田弾正忠家(おだだんじょうのじょうけ)は、守護代の清州織田家の家臣筋で、尾張の数ある勢力の一つという立場でした。
祖父・信秀の時代に勢力を拡大し、父・信長がその経済力を背景に尾張を統一します。そして天下布武(てんかふぶ)の元で畿内を抑え、天下統一が視野に入るほどの巨大な存在となりました。
信雄は、この信長の次男として永禄元年(1558)に誕生します。
伊勢攻略の時に、伊勢国司の北畠具房の養子となり、名門北畠家の家督を継承しました。その後は、信雄は北畠具豊(きたばたけともとよ)として活動をしていきます。信雄は伊勢衆を率いて、紀州征伐や本願寺攻めなど数々の戦に参加し、経験を積んでいきます。
しかし、独断で始めた伊賀攻めでは大敗を喫し、信長からは親子の縁を切ると言われるほどの敗戦でした。兄・信忠が甲州征伐の司令官に、弟・信孝が四国征伐の司令官に抜擢されているのと比べると、信雄の市場価値は低下してしまったようです。
しかし本能寺の変により状況は一変します。
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