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結城晴朝による秀吉・家康を利用した「生存戦略」の結末

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第6回

■激動の戦国時代に必要とされた「生存戦略」

結城晴朝の居城であった結城城(茨城県結城市本町)跡地。大手口から本丸跡に向かう空掘に、大正6年(1989)に建てられた三日月橋がかかっている。

  結城(ゆうき)家は鎌倉時代から続く名門の家柄です。戦国時代には北条家や上杉家が勢力を拡大し、旧来の勢力が弱体化していく中、結城家も同様に苦しい立場になっていきました。

 

 結城家は、周辺の宇都宮家などと同盟や婚姻を結び、北条家などに対抗していきます。しかし、17代当主の結城晴朝(ゆうきはるとも)は豊臣政権が強勢になると、早い段階から誼を通じ従属します。

 

 そして豊臣秀吉の養子であった徳川家康の次男秀康を、自身の後継者に迎えて、結城家の存続を図ります。これは、結城の家名を残すために徳川家の力を借りる、「生存戦略」です。

 

■生存戦略とは?

 

 生存戦略とは、辞書によると「生き残ることを目的として行われる一連の戦略的行動」とされています。

 

 あらゆる生物は、種を残すために色々な戦略をとります。小さくて弱い生物であれば群れを作り、大きな集団を形成し天敵から身を守り、また、別の生物と弱みを補いながら共生するものも存在します。他にも擬態や、逃げる能力に特化するなど、多種多様な方法があります。

 

 そうして生物は、環境に合わせて生き残りを図ってきました。これが生存戦略です。戦国時代でも、小さな勢力が家名を守り生き残るためには、環境の変化を読み取り、状況に合わせた生存戦略を取っていく必要がありました。

 

■結城家という伝統ある家名

 

 結城家は、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫である小山朝光(おやまともみつ)が、源頼朝より下野国結城(しもつけのくにゆうき)の地を与えられ結城朝光と名乗ったのが始まりと言われています。結城家は、鎌倉幕府の御家人として要職を勤め、建武の新政でも家名を残す立ち回りをし、戦国時代まで存続した名門です。

 

 一時は宇都宮家や佐竹家と並んで「関東八屋形(かんとうはちやかた)」に数えられるほどの勢力を誇りました。しかし、結城晴朝の時代になると北条家や上杉家に属する事で、何とか勢力を維持できている状態でした。

 

 そんな状況下、豊臣政権が勢力を拡大し小田原征伐を開始すると、晴朝は進んで参陣し豊臣家に従属します。この参陣が認められ、結城家は新しい中央政権から本領を安堵されます。

 

 さらに晴朝は豊臣政権との紐帯(ちゅうたい)を強め、関東に移封してくる徳川家康との関係性を構築しようと考えます。それは秀吉の養子であり、家康の次男の秀康を、結城家の後継者として迎え入れる事で、豊臣家及び徳川家とも縁戚関係を持つという生存戦略でした。

 

■有力者と縁戚関係を結ぶ生存戦略

 

 戦国時代には、軍事同盟や不戦協定に加えて、関係性をより強固にするために婚姻など縁組がよく行われていました。

 

 有名なものであれば、武田家、北条家、今川家による甲相駿(こうそうすん)三国同盟があります。武田信玄の娘が北条氏政(ほうじょううじまさ)に嫁ぎ、北条氏康(うじやす)の娘が今川氏真(いまがわうじざね)に、そして今川義元の娘が武田義信(よしのぶ)と婚姻関係を築くことで、強固な戦略的同盟を結びました。

 

 今川義元が桶狭間で敗死したことで、同盟は崩壊してしまいますが、それまではうまく機能していました。

 

 さらに強固な関係性を構築する方法として、他勢力の男子を自らの後継者として迎え入れる方法があります。これは御家を乗っ取られる危険性もありますが、家名を存続し勢力を維持させるための最終手段でもあります。

 

 晴朝は結城家を守るために最善の方法を選択していきます。

 

■状況に合わせた生存戦略の切り替え

 

 

 当初、晴朝は宇都宮広綱(うつのみやひろつな)の次男朝勝(ともかつ)を婿養子に迎えていました。これは北条家などの大勢力に対抗するために、周辺勢力と連帯して対抗する生存戦略です。

 

 しかし、豊臣政権によって北条家が滅ぼされ、上杉家が従属すると状況が一変します。豊臣政権という、新しい枠組みの下で結城家の存続を図る必要がありました。

 

 そこで晴朝は朝勝を離縁し、秀吉の養子であった秀康を結城家の婿養子として迎える生存戦略に切り替えました。豊臣家と徳川家という大きな勢力との共生、悪く言えば寄生するような形で結城家の家名を守る事を優先します。

 

 しばらくすると、この戦略転換の効果が出ます。1597年に宇都宮家の改易騒動が起こります。縁戚関係にあった佐竹家は巻き込まれ、石田三成の助力によって何とか免れるという状況でした。秀康を当主に迎えていた結城家は、この不測の事態を避ける事ができました。

 

 しかし、ここで予想もしない環境変化が起こります。秀吉の死と家康による政権奪取です。

 

■終わりなき環境の変化と生存戦略

 

 関ヶ原の戦いで勝利した家康は1603年に征夷大将軍に就任しました。これにより、徳川の家名は価値がさらに高まりました。

 

 さらに秀康が下総結城11万石から越前北庄68万石への加増転封となります。父祖の地から離れ、新規採用の家臣も増えたことで、晴朝の影響力は大きく低下していきます。

 

 それに合わせて、結城家中で徳川・松平姓への復帰の気運が高まっていきます。1607年に秀康が亡くなると、2代忠直は正式に松平を名乗るようになりました。

 

 現代でもM&Aをされた企業が、ブランド力の強化のために親会社の社名を取り入れる例が多々あります。

 

 晴朝は秀康の五男をもらい受け、結城直基(なおもと)として養育します。しかし、晴朝が亡くなると、直基も松平を名乗るようになります。晴朝の想像以上に徳川・松平の家名の価値が高まっていました。

 

 こうして大名としての結城の名は消滅してしまいました。

 

 もし秀康を迎える際に、朝勝を離縁せずに分家を立てさせていれば、違った結果になっていたかもしれません。ただ、結城家の祭祀と家紋については、その後も直基の家系が引き継ぎ、現代まで残りました。

 

 ちなみに、直基の子孫である松平大和守家18代当主松平直孝(なおゆき)氏が結城巴を使いTwitterをされています。もしかすると、直基の松平復姓も「名を捨てて実を取る」という晴朝の生存戦略の最後の一手だったのかもしれません。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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