北条氏政を苦しめた組織の「官僚化」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第7回
■領土拡大とともに官僚化が進んだ北条氏

早雲以下、北条五代が拠点とした小田原城。天守閣は明治3年に廃城令により解体され、昭和35年に廃城以来90年ぶりに復興された。
北条氏政(ほうじょううじまさ)は、小田原評定(おだわらひょうじょう)という言葉のイメージもあり、無能な武将のイメージがあるかもしれません。当主として問題があり、小田原征伐を招き、北条家を滅ぼしたと思われています。
しかし、北条家は氏政の時代に、伊豆・相模・武蔵・上野・下総(しもうさ)そして上総(かずさ)、常陸(ひたち)、下野(しもつけ)の一部という最大版図を築きます。環境が激変する中、大きな成果を残しています。実際は、評定と呼ばれた合議システムなど官僚機構の構築により、安定的な運営ができていました。
拡大した領国を支えていたのは、こうした組織の「官僚化」でしたが、豊臣政権と対峙した際には弊害もありました。
■組織の「官僚化」とは?
「官僚化」とは、大きな組織や集団が、規則やルールに沿って効率的に目標を達成させる管理体制である、官僚制へ移行していく事を指します。
例えば、企業の創業期においては、創業者のカリスマ性やリーダーシップに依存することで、目標を達成していきます。しかし、組織が大きくなり成熟していくと、カリスマ性に頼らない合理的な管理システムへの移行が必要になります。
それが権威による階層構造や、規則による秩序、文書による管理などを行う官僚制です。官僚化には、規則やルールを基準に決定を行うため、公平性や公正さを担保できるメリットがあります。
逆に、デメリットとしては、柔軟な対応ができなくなる点や縦割り主義・縄張り主義が生まれる点などが挙げられます。
北条家も大きな組織の常で、徐々に官僚化が進められていきました。
■北条5代による関東への勢力拡大
北条家は、室町幕府の御家人の伊勢新九郎(いせしんくろう/後の北条早雲)が伊豆の堀越公方(ほりごえくぼう)を倒し、長禄3年(1459)に小田原城を奪取したところから始まります。早雲が亡くなると北条氏綱(ほうじょううじつな)が家督を承継します。氏綱の時代には、伊豆と相模に加えて武蔵半国など勢力を拡大させます。
氏綱は支城制(しじょうせい)を導入し、権限委譲を行いました。また、鎌倉執権の北条家を名乗るようになり、関東での権威付けを行います。
次代の氏康(うじやす)の時代には、武田家と今川家と甲相駿(こうそうすん)三国同盟を結び、さらに関東への進出を強めます。そして、伊豆・相模・武蔵に加えて、上野と下総の一部を支配下におきました。氏康は大規模化していく領国の統治を安定化させるために、官僚機構の整備を行います。
その中のひとつとして、評定と呼ばれる合議制を用いるようになります。これが後に小田原評定と揶揄されるようになってしまいますが、訴訟における公平性や公正性を担保するものでした。また、花押(かおう)ではなく印判を使い、事務作業の効率化を図っています。
氏康の死後、武田信玄や上杉謙信の死という幸運にも助けられた面もありますが、氏政(うじまさ)の指揮の下で北条家は最大版図を築きます。
領国が伊豆・相模・武蔵・上野・下総そして上総、常陸、下野の一部にまで及んだことで、一門や重臣に権限の委譲を進め、政務の分業化もさらに進めています。氏照(うじてる)は下野・東北の外交と軍事、氏邦(うじくに)は上野の軍事、氏規(うじのり)は西方の勢力との外交を担当しました。氏政の時代には分業化がスムーズに行われており、北条家として行政機構の官僚化が、かなり進んでいたように思います。
■氏直への家督継承による役割分担
氏政も父を見習うように、1580年に氏直(うじなお)へ家督を譲ります。内政面における全ての権限に加え、軍事の一部を氏直に委譲しました。外交と軍事については氏政が責任者の地位を保持し、親子で役割を分担し北条家の舵取りをしていきます。
氏政は武田家の滅亡や本能寺の変、そして天正壬午(てんしょうじんご)の乱に乗じ、上野の大部分を支配下に収めることに成功します。これで下野の一部と常陸を除き、ほぼ関東を支配下におきました。この時期に、氏政は氏直への軍事面の権限委譲を進めていきます。
北条家の念願である、関八州の支配が達成に近づいてきました。しかし、西日本を支配下に治めた豊臣政権が北条家に従属を迫ってきます。
■豊臣政権への対応における官僚化の弊害
この時、氏政は豊臣政権から関東惣無事(かんとうそうぶじ)を通達されます。これを聞き入れると、関八州(かんはっしゅう)を支配下に置くという北条家の目標を放棄する事になります。氏政は、ひとまず沼田問題の解決を条件に従属を申し入れます。
ただ、天正16年(1588)の聚楽第(じゅらくだい)への天皇行幸(ぎょうこう)に列席を求められますが、これを拒否し関係が悪化します。
再度、家康から上洛の説得を受け、氏政は前向きに検討を始めますが、上洛資金が用意できず、期日を延期するなど対応に混乱が生じています。
この対応の遅れでは、官僚化した組織ならではの縦割り主義・縄張り主義を原因として、柔軟な対応ができていないように見受けられましたが、ひとまず氏直が主導する形で一門の氏規を送り出し、豊臣政権との関係改善に一時的に成功します。
そしてこの頃に、氏政は全ての権限を氏直に譲渡し、全ての政務から離れようとします。しかし、あまりに突然の事で、戸惑う家臣の書状が現存しています。
この時、氏政は自身の隠居により、指示系統の一本化を強引に図ろうとしたのかもしれません。
しかし、沼田領の問題が解決すると、氏政は再び外交と軍事について主導するようになります。上洛を決心し、秀吉に謁見するための準備を進めようとしました。
ただ、またしても資金集めに苦労し、上洛計画が頓挫します。家中の調整がつかないため当主の思い通りに事が進みません。
そうして、上洛が遅れている間に、北条家家臣による名胡桃(なぐるみ)城奪取事件が起きてしまいます。これが小田原征伐の引き金となり、北条家を滅亡させる事になります。この件は現場の独断専行、従属反対派による計略、真田側の謀略とも言われますが、真相は分かっていません。
■現代でも悩まされる組織の官僚化
豊臣政権の小田原征伐に対して、氏政は15歳から70歳の男子を総動員して臨戦態勢を構築しますが、衆寡敵(しゅうかてき)せず豊臣政権の軍に各支城を落とされ、居城の小田原城を包囲されてしまいます。
講和交渉においても、氏政と氏直で意見に相違があるなど、意見がまとまるまでに多くの時間を要しました。最後は氏直が主導する形で講和交渉を進めていきます。交渉の結果、北条家の改易と氏政たちの切腹を条件に講和が成立します。
北条家の先達たちによる組織の官僚化は、家督争いや派閥争いを生み出さない安定した組織を作り上げました。これは、後継者たちの能力に依存しない統治機構でした。
一方で、官僚化による弊害が、豊臣政権への対応への遅れや不備となったと思われます。もし、氏政が創業者のような独裁権を振るって上洛を強行していれば、北条家のその後は変わっていたかもしれません。
ただ、これは現代においても克服の難しい課題で、多くの大企業や組織が悩まされています。氏政の例は、官僚化の利点と弊害について、とても参考になる事例だと思います。