蒲生氏郷が家臣に発揮した「統御力」と子孫を苦しめた副作用
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第9回
■同時代のトップから薫陶を受けた氏郷

滋賀県日野町上野田にある蒲生氏郷公像。氏郷が秀吉の命により会津から九州へ向かう途中、故郷の綿向山を眺め、望郷の歌を詠んだ際の姿をイメージしている。
蒲生氏郷(がもううじさと)といえば、時の権力者たちから一目置かれるほどの才能を有しており、将来を期待されつつも40歳の若さで亡くなった悲運の戦国武将というイメージが強いと思います。
織田信長からもその素質を認められ娘婿となり、豊臣秀吉からは関東東北の抑えとして会津90万石に封じられました。また、時の文化人の頂点にいた千利休からも非常に愛され、その薫陶を受けています。
時代のトップリーダーたちから学び培った経験とノウハウで、寄せ集めに近い蒲生家家臣団を率いて、武功を上げてきました。
しかし、氏郷が亡くなった後、蒲生家は何度もお家騒動を起こし、当主を苦しめます。家臣が出奔するような、大きな騒動も頻発しています。
これは氏郷の類まれなる「統御力」の逆作用が大きく影響しています。
■統率力の源泉となる「統御」とは?
戦国時代であっても現代であっても、軍や組織を率いるには統率力が重要な要素となります。統率力の源泉となるのは、大きくは「指揮」「統御(とうぎょ)」の2要素と言われています。
「指揮」は、リーダーが部下に命令を実行させる事を指します。ビジネスの現場では、上司が部下に指示を出し、自社にとって適切な行動を実行させる事が該当します。
そして部下に実行させるために、重要となるのが「統御」です。「統御」は指揮官やリーダーが部下からの信頼を獲得し、自発的に指示命令に従うようにする事を指します。つまり、部下が自ら死地に赴けるほどの信頼関係を構築する力です。戦場においては非常に重要な要素です。
ビジネスにおいては、リーダーシップやカリスマという言葉がそれに近いものかもしれません。組織の「統御」ができていなければ「指揮」は不安定になり、統率は不完全なものとなります。今も昔も、組織を率いるリーダーには「統御力」はとても重要な能力です。
■武功を重ねて拡大していった蒲生家
蒲生家は、近江国日野を本拠とし六角家の重臣として仕えてきた家です。織田家の侵攻により信長に臣従する事になり、氏郷が人質として送りだされました。
氏郷は信長の近くで過ごすうちに、その才気を気に入られ娘婿となります。姉川(あねがわ)の戦いや長篠(ながしの)の戦いなど数々の戦で武功を上げ、信頼を獲得していきます。
本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いや小牧長久手(こまきながくて)の戦いなど、豊臣政権の主要な戦に参加し活躍しています。その後、伊勢松島12万石へ加増転封された事で、六角旧臣や伊勢国人を積極的に採用し、家臣団の増強を図ります。
一方、千利休(せんのりきゅう)の弟子となり茶の湯への造詣(ぞうけい)を深め、利休七哲(りきゅうしちてつ)と呼ばれるほどになります。利休からは「文武二道の御大将にて、日本におゐて一人、二人の御大名」と賞されます。
そして、九州征伐や小田原征伐で武功を重ねた功績を買われ、1590年には会津91万石と大幅な加増を受けます。
氏郷は、関東東北を抑える役目を担うために、さらに家臣団の増強を図ります。
■氏郷の「統御力」とは?
氏郷が会津に移封されたときに、防衛の拠点となる支城に配置した重臣のうち蒲生家譜代の者はわずかで、その多くは外様の家臣という構成でした。これは、度重なる加増転封による人材不足を補うため、外部から有能な人材を集めたためです。
急ごしらえの家臣団は何かと問題が発生しがちですが、氏郷はこれまでに培ってきた統御力を発揮します。まず、月に一度、家臣全員を集めた会議を開き、身分や年令に関係なく発言できる事を保障し、活発な意見交換をさせました。また、その際には氏郷自らが風呂や料理の世話をするなど、密接なコミュニケーションを取っています。
これらは千利休や豊臣秀吉から学んだ対話や対面による、関係性構築の手法だと思われます。かつて同格クラスであった外様の家臣には、蒲生の苗字を与えて一門衆扱いとし、その承認欲求を満たしたりもしています。
一方で、氏郷は軍規には厳しく、その才能を愛していた者であっても、違反をすれば処刑するなど信賞必罰を明確にしています。信長や秀吉、利休たちをメンターのようにし、その統御手法を自分のものとして、寄せ集めの蒲生家を纏めていました。
しかし、会津移封の5年後に氏郷は亡くなります。そして、わずか12歳の嫡子秀行(ひでゆき)が、巨大な蒲生家の当主となります。そして、氏郷の「統御力」を失った蒲生家は、数々のお家騒動に悩まされていくことになります。
■氏郷死後の蒲生騒動の数々
幼少の秀行は、父氏郷の統御手法を学ぶ時間がありませんでした。氏郷の強力な「統御力」によって纏まっていた家臣団は、当主の死後すぐに派閥争いを始めます。全ての家臣を、同格のように意見交換をさせていた事が裏目に出てしまったのかもしれません。誰かが家中で権力を握ると、それに反抗するものが必ず現れ、派閥争いは収まる事はありませんでした。
これは日野時代からの譜代家臣が相対的に少ない事や、外様家臣が増加した事で序列やヒエラルキーが曖昧になってしまっていた事も関係していたと思われます。これは急激に組織が拡大した場合に、よく見られる現象です。
秀行の次の忠郷(たださと)、その次の忠知(ただとも)の時代でもお家騒動は続いていきます。親子2代にわたって派閥争いの中心となっている蒲生郷成(さとなり)・郷喜(さとよし)父子のような例もあります。蒲生家は当主の早逝が続き、4代忠知の時代に無嗣(むし)により改易となります。
直接の死因とは関係ありませんが、長年続く家中の派閥争いが当主の心労となっていたのは間違いないでしょう。
■「統御力」の承継は難しい
氏郷は本来の人間性もさることながら、若い頃から信長や秀吉、利休を側で見て、彼らの「統御力」を体感できました。また、信長から安土城の留守居役を任された父賢秀(かたひで)の薫陶を受ける時間も十分にありました。
「統御力」は人間性に寄与する面も強いため、承継は非常に難しい要素です。現代でも、前任者が上手くまとめていた組織が、次代で簡単に崩壊してしまう例は多々あります。
これを防ぐには、個人の能力に頼らなくても良い一元支配的な秩序を形成する事が重要となります。組織として安定化を図ることができます。
もし氏郷があと10年長生きできていれば、秀行に「統御」を学ばせる事ができ、その後のお家騒動は防げたかもしれません。この時代、巨大化した組織の後継者の多くが蒲生家と同様にお家騒動に悩まされています。
現代でも創業者の後を継ぐのは困難がつきものです。創業者の能力が高ければ尚更です。氏郷の例は後継者の苦労が分かる事例の一つです。