家康の警戒心を招いた黒田長政の「怜悧冷徹」さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第13回
■東軍を勝利に導いた黒田長政の封地

黒田長政が築いた福岡城(福岡市中央区城内)の下之橋御門と伝潮見櫓。石垣はほぼ当時のものが現存し、往時の様子を目にすることができる。
黒田長政(くろだながまさ)といえば、石田三成(いしだみつなり)を憎む武断派として、関ヶ原において東軍の勝利に貢献し、徳川家康(とくがわいえやす)から信任を得た武将のイメージが強いかと思います。小早川家や毛利家を調略した長政の活躍が高く評価され、筑前52万3千石という大封を得ます。
しかし、これは長政が所望した三国の中で、上方から一番遠い場所でした。また、父の黒田孝高(くろだよしたか)も九州で西軍勢力を駆逐する活躍をし、その見返りとして備前か上方の何処かを長政に与えられる事を望んでいたようですが、こちらも叶いませんでした。
父子で大功がありながらも筑前へ加増転封となったのは、長政の行動における「怜悧冷徹(れいりれいてつ)」さがひとつの原因かもしれません。
■「怜悧冷徹」とは?
「怜悧(れいり)」とは、辞書などによると、賢さや利口さ、利発さの事です。一方「冷徹」とは、感情に左右されることなく物事を冷静に見ることとされています。二つを合わせた「怜悧冷徹(れいりれいてつ)」は、賢く状況を冷静に見極める能力となります。今までのしがらみ等を考慮せずに判断を下せるため、戦場の指揮官にとっては重要な要素になります。
御家の存続を図るためにも、「怜悧冷徹」であることは本来悪いことではないはずですが、この言葉には一般的にあまり良いイメージがないように思います。それは、判断において情を排除している点が、見る人によっては冷酷な人間と受け取られる場合があるからだと思います。
長政は献身的に徳川幕府に貢献しますが、藤堂高虎(とうどうたかとら)ほど重用されているようには見えません。
■黒田長政と父孝高の事績
黒田家は本来備前を本拠としていましたが、祖父の時代に播磨へと流れ小寺氏に使えるようになります。父孝高が主君の小寺氏に織田信長(おだのぶなが)への臣従を勧め、中国方面担当の豊臣秀吉(とよとみひでよし)の指揮下に入ります。
その時、長政は人質として幼少期を豊臣家で過ごします。本能寺の変などを経て豊臣秀吉が権力を握ると、秀吉の直臣として父子で数々の武功を上げます。
黒田家は九州征伐の功績により豊前中津12万5,000石を得て、本州と九州を結ぶ要衝の地を任せられます。文禄慶長の役でも父子で活躍しますが、孝高は秀吉から勘気を受け、長政も奉行衆の報告を受けた秀吉に叱責を受けます。
後に秀吉が没した事でそれらの件はうやむやになりますが、豊臣政権内で主導権争いが激化します。長政は徳川家康に近づいて、政権内から石田三成たち奉行衆を排除するため多数派工作をしかけていきます。最終的には小早川家や毛利家に調略をしかけ、関ヶ原の戦いで東軍を勝利に導きました。そしてその功績が高く評価され、豊前中津から筑前52万3千石へ加増転封(かぞうてんぽう)となります。
石高としては倍増以上となりましたが、立地的には畿内から遠ざかる形での移封となりました。
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