一門の没落を招いた大友吉統の「意志」の弱さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第14回
■リーダーに必要な「意志」の強さ

大分県大分市にある、大友氏の館跡。現在、中心建物の復元整備などを中心として大友氏館跡歴史公園(仮称)の整備が進められている。
大友氏の第22代当主だった大友吉統(おおともよしむね)は、先祖代々豊後(ぶんご)を治めてきたものの、豊臣政権の意図により改易されます。その後、復活を目指した関ヶ原の戦いでは、西軍に利用されて敗北したことから、不運な名門武家のイメージがあると思います。
文禄の役における失態だけで、豊後一国を改易されるのは道理に合わないため、九州での地盤を固めたい豊臣政権に利用されたとも言われています。
確かに中川家や竹中家、毛利家(もうりけ)などの豊臣譜代の諸侯が配置され、また豊臣家の蔵入り地も設置されています。ただ、計画通りの改易というよりも、度重なる失態により見切りを付けられたと考えられます。その失態の要因は、大友家の当主である吉統の「意志」の弱さです。
■「意志」とは?
「意志」は「意思」と間違われて使われがちですが、この二つには大きな違いがあります。
「意志」とは辞書によると目的や計画を選択し、それを実現しようとする精神の働きとされています。つまり自分の目的を達成しようとする意欲の事です。志とも言い換えられます。
一方「意思」は、単に思いや考えを指す時によく使われる言葉です。
「意思」と比べると「意志」には強い信念が込められている点に違いがあります。そのため時代に関係なく組織や集団においてリーダーの「意志」の強さは重要になってきます。現代でも「意志」の強さはリーダーシップを構成する要素の一つとされています。
大友家の命運は、第22代当主となった吉統の「意志」に左右される事になります。
■大友家の豊後支配
大友家の豊後支配は、鎌倉時代に初代当主大友能直(よしなお)が豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に輔任されたのが始まりです。大友家は元寇(げんこう)で活躍し、豊後での勢力を拡大していきます。南北朝の争乱では、足利尊氏(あしかがたかうじ)を支持し、豊後・筑後(ちくご)守護に輔任され、九州での勢力を保ちます。
その後は、一時的に勢力を弱めながらも、隣国の豊前(ぶぜん)・筑前(ちくぜん)へも進出し、肥前(ひぜん)・肥後(ひご)にも勢力を拡大。父宗麟(そうりん)の時代には有能な家臣団の力もあり大友家の全盛期を築きます。宗麟は足利幕府や織田政権など、中央の権威を利用しながら敵対勢力と渡り合っていきます。
しかし、宗麟が隠居し吉統が当主となると、その「意志」なき判断や行動により、急激に勢力を弱めていきます。
■吉統が家中に与える不安と混乱
吉統は大友家中の宗教的対立に対しても「意志」を感じられない行動を取ります。
吉統は母奈多夫人の影響により、キリスト教に傾倒する宗麟を強く非難します。その一方で宗麟の考えにも同意し、キリスト教を保護し寺社領を分配するなどしています。
そして、1587年には、黒田孝高(くろだよしたか)の勧めでキリスト教に入信し、コンスタンチノという洗礼名を受けますが、二カ月後の伴天連追放令(ばてれんついほうれい)が出されると早々と棄教してしまいます。さらに、その時に「自分は意志薄弱で優柔不断だから」と宣教師たちに言い訳したと言われています。
常に吉統は強者に流される傾向にあり、その「意志」の弱さが浮き彫りになったかたちです。また、私生活においても、酒に溺れ、それに伴う乱行も多く、宣教師たちから批判されています。後に吉統は自身を省みて、嫡子義乗(よしのり)には酒を飲まない方が良いと家訓を残し諭しています。
これを受けて、重臣の立花道雪(たちばなどうせつ)たちは吉統の隠居と宗麟の復帰を訴えています。この不安は家中だけでなく、大友家の庇護者となる豊臣秀吉も感じるようになります。
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