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信長と家康に警戒された水野信元の「したたかさ」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第16回

■織田家と徳川家に貢献した水野信元

現在の亀城公園(愛知県刈谷市城町)に残る、水野家の居城のひとつであった刈谷城の濠。

 水野信元(みずののぶもと)は徳川家康(とくがわいえやす)の母の於大の方(おだいのかた)の兄であり、清州同盟や数々の戦いに貢献しながらも、佐久間信盛(さくまのぶもり)の讒言によって暗殺された悲劇の武将というイメージが強いかと思います。

 

 実際には佐久間信盛の讒言ではなく、信元の存在を警戒した織田信長(おたのぶなが)と家康の同意の元で排除されたとも言われています。

 

 信元は、信長の父信秀の頃から織田方として今川家などと戦い、家康の伯父として徳川家を支援するなど、織田と徳川の両家と深い繋がりを持っていました。武力と外交力を駆使して、織田と徳川の境界にあたる知多半島を制しています。

 

 しかし、両家にとって重要な立場にあるはずでしたが、武田家との内通の疑いによってあっさりと殺害されてしまいます。これには戦国時代を生き抜いていた信元の「したたかさ」が警戒されたのではないかと思われます。

 

■「したたかさ」とは?

 

「したたかさ」とは、辞書によると「 しっかりしているさま。確かなさま。」や「非常に強いさま。また、容易に他に屈しないさま。」などと良いイメージがあります。一方で「見かけはそうは見えないが、相当の能力をもち、簡単にはこちらの思うようにならない人のさま。一筋縄ではいかないさま」と微妙な印象を与える意味も持っています。

 

 戦国時代において上記の意味はどれも生き残るための強みとなるものです。一族や家臣たちに取っては当主の「したたかさ」は非常に頼りになるものです。

 

 一方で目上の存在にとって、部下や家臣の「したたかさ」は、時として厄介なものとして捉えられる事があります。建国の功臣が排除されるのは東西問わず歴史の常です。そういった点で、織田家や徳川家にとって信元は要注意人物だったのかもしれません。

 

■水野家の事績

 

 水野家は元々尾張知多郡の小河にて小河を名乗っていましたが、春日井郡水野郷に移った事で水野に改めたと言われています。その後、水野貞守(さだもり)の頃から入り江を挟んだ尾張緒川城と三河刈谷城の二つを拠点に活動します。

 

 父の忠正の時代までは、松平氏と婚姻を通じて深く繋がりを持っており、妹の於大の方が松平広忠(まつだいらひろただ)に嫁いで家康が生まれています。

 

 信元が継承すると、知多半島への勢力拡大のため、今川家とは距離を置き織田家との関係を深めます。戸田家や佐治家と縁戚関係を結ぶなど、他勢力を支配下に組み入れる事に成功し、知多半島を勢力下に置きます。今川家との戦いでは、信長の援軍を受けた事で織田家の与力のような立場を強めていきます。

 

 桶狭間の戦いでは家康の退却を助けたり、三河一向一揆に援軍を出すなど、信元は甥である家康を支えるような行動をしています。また、清州同盟の仲介をしたとも言われ、徳川家に助言するような立場となっていったようです。

 

 その後は、織田家の与力として姉川(あねがわ)の戦いや三方ヶ原(みかたがはら)の戦い、長島一向一揆にも参戦し、水野家の所領は24万石とも12万石とも言われるにまで拡大します。

 

 しかし、長篠(ながしの)の戦いが終わると、突如として武田家との内通を疑われてしまいます。これまで織田家や徳川家の勢力拡大に貢献してきたものの、信長の指示を受けた家康の手によって殺害されます。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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