追放を招いた佐久間信盛の消極的な「保身」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第19回
■突如追放された筆頭家老の佐久間信盛

愛知県名古屋市緑区鳴海町の天神社内にある、鳴海城跡の石碑。鳴海城は桶狭間の戦いの後に佐久間信盛が城主を務めた。
佐久間信盛(さくまのぶもり)は織田家の筆頭家老でありながら、豊臣秀吉(とよとみひでよし)や明智光秀(あけちみつひで)など、有能な織田家臣に比べると地味な印象です。本願寺との講和後に、突如として19箇条の折檻状(せっかんじょう)によって高野山(こうやさん)へと追放されたことで、無能な武将のイメージが強いかと思います。
信盛は信長の最初期から家臣として30年も仕え、数々の戦で武功を挙げるだけでなく交渉や調略を行うなど、織田家の勢力拡大に貢献しています。
三方ヶ原(みかたがはら)の戦いや長篠(ながしの)の戦いに参加するなど、主に武田家への抑え役を担い、武田家の勢力が弱まると石山本願寺攻略を任されています。いわゆる大規模な畿内(きない)方面軍の司令官となります。
しかし、10年近く争った本願寺との講和が結ばれると、突如として信長から過去の行状を詰問され、信盛は身一つで高野山へと追放されます。
この追放は信盛の過度な「保身」を問題視されたからだと思われます。
■「保身」とは?
「保身」とは、辞書によると「身の安全を保つこと。自分の地位、名声、安穏を失うまいと身を処すること」とされています。命を守るための行動だけではなく、地位や名誉など目に見えない物を守る事も含まれているのが特徴です。
対義語として「献身」があります。これは「一身をささげて尽くすこと。自分の利害得失を考えないで人や物事に力を尽くすこと」とされています。
身も守るために敢えて強者に対して「献身」的に行動する事もありますので、その場合はある意味で間接的な「保身」とも言えそうです。
戦国時代であればまさに命を守る行動こそが最大の「保身」だと思われますが、現代では組織内における役職や地位を守るための行動を指す事が多いようです。
織田家の筆頭家老にいる信盛としては自身の命を守ることも大事ですが、現在の地位を守る必要もあったかと思われます。そのため、「保身」のため失敗を避ける消極的な行動が多くなっていきます。
■佐久間信盛の事績
佐久間家は承久(じょうきゅう)の乱の頃より、尾張の御器所(ごきそ)に定住したと言われています。信盛は重臣として信長が幼少のころから仕えており、織田信秀(おだのぶひで)亡き後の家督争いでも一貫して信長を支持した事で、有能な家臣団の中でも重鎮的な存在となります。桶狭間の戦いに始まり、観音寺城の戦いや姉川(あねがわ)の戦いなどの主要な戦に参加しています。
武田家の抑え役として水野信元(みずののぶもと)たち与力と共に徳川家康(とくがわいえやす)を支援し、三方ヶ原の戦いや長篠の戦いにも出陣しています。その後、本願寺との戦いで死亡した塙直政に代わり畿内方面軍の司令官となり、数多くの与力を付けられた事で、家中で最大の軍団を率いる立場となりました。
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