本多正信があえて「権勢」を振るった理由
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第18回
■本多正信の野望と「権勢」

本多正信が弟の本多正重とともに加担した三河一向一揆の拠点となった本證寺(愛知県安城市)
本多正信(ほんだまさのぶ)は主君の徳川家康(とくがわいえやす)から「友」と呼ばれるほどに信頼を得た側近であり、徳川幕府樹立のために策謀(さくぼう)を巡らした、権謀術数(けんぼうじゅっすう)の武将というイメージが強いと思います。
その例として、関ヶ原の戦い前後において石田三成(いしだみつなり)に関する家康との謀議に関する逸話が残っています。
また、正信が中心となり家康の征夷大将軍就任に関する交渉を行うなど、江戸幕府樹立のために尽くしたとも言われています。
同僚たちが失脚していく中、2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の重臣となり、嫡子の本多正純(まさずみ)が家康の側近として仕える事で、徳川幕府の中枢において親子で政権運営を支えていきます。
しかし、正信の死後、正純は突如として謀反の疑いにより改易されます。その後も、その功績を評価されることはなく、本多家は大名としての復活は許されませんでした。これには、正信が理想とする国づくりのために握った「権勢」と、その反作用が大きく影響していると思われます。
■「権勢」とは?
「権勢」とは、辞書によると「権力と威勢。権力をもち、勢力のあること」とされています。権力の「他人を強制し服従させる力。権勢。権柄」に、威勢の「人を威圧する力。はげしいいきおい」が加わったものです。また、端的にいえば他者を圧倒する力ともいえます。多くの人間が関わる中、自分の理想通りに物事を進めていく上で「権勢」は非常に有用なものとなります。
国や政権を主導する上でも重要であり、歴代の幕府においてもこれを手中に収めるために数々の抗争が起きています。
一方「権勢」には恐怖や畏敬が向けられる反面、恨みや妬(ねた)みも隠されているため、一旦これを失うと報復や弾圧を受けます。正信は、この反作用も把握した上で、理想とする国造りのために敢えて「権勢」を握ろうとした側面が見受けられます。
■本多正信の事績
本多家は三河の土豪の出身と言われており、元は酒井家に臣従していたようです。正信は家康に仕え桶狭間(おけはざま)の戦いにも参加したと言われています。しかし、三河一向一揆が起こると、弟の本多正重(まさしげ)と共に一揆方として徳川家と対峙します。一揆の鎮圧とともに、三河を離れて、しばらくは各地を流浪していたようです。
その後、旧知の大久保忠世(おおくぼただよ)の取り成しによって、時期は不明ながらも徳川家に帰参します。1582年の本能寺の変以降から家康の信任が厚くなったようで、天正壬午(てんしょうじんご)の乱で手に入れた武田家の旧領において奉行として統治を担当しています。
小田原征伐後の関東移封においては、相模玉縄1万石を得て大名となります。そして、家康の征夷大将軍叙任のために尽力し、江戸幕府の開府に貢献しています。
秀忠が2代将軍に就任すると、秀忠の重臣として幕政の基礎固めを行います。正信はたちが失脚していく中、後の老中首座のような地位を得ています。
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