御家存続への想いを「承継」できなかった堀直政
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第20回
■豊臣秀吉からも賞された名将堀直政

新潟県長岡市にある蔵王堂城にある堀直寄像。直寄は堀直政の次男(または三男)で、直政の死後、兄の直清と越後福嶋騒動を起こす。
堀直政(ほりなおまさ)は、主君の堀秀政(ひでまさ)が有名でないため、一般的にあまり知られていませんが、実際は、実際は、秀政と共に山崎の戦いや賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いなど多くの戦に参加し、数々の武功を上げている戦国武将です。
また武勇だけでなく、秀政亡き後、直政は二代目秀治(ひではる)への家督相続を渋る豊臣秀吉(とよとみひでよし)を説得するなど、政治力も発揮しています。そして、天下の三陪臣として直江兼続(なおえかねつぐ)や小早川隆景(こばやかわたかかげ)と同列でその名を挙げられるかたちで、評価されています。
関ヶ原の戦いでも、その政治力により、堀家を東軍としてまとめ、直江兼続や石田三成(いしだみつなり)の策略を見破り、主家の存続に貢献しています。
しかし、直政のこれまでの苦労も虚しく、その死後すぐに堀家は改易(かいえき)されてしまいます。直政の名が兼続や隆景ほど知られていないのは、堀家が取り潰しになった影響も大きいかもしれません。
この改易の原因は、直政が抱いた想いの「承継」の失敗にあったと思われます。
■「承継」とは?
「承継」とは辞書によると「地位や身分・財産・権利・義務を受け継ぐ事」とされ、ここに精神も加わる事もあり目に見えないものが含まれます。
「承継」と混同される「継承」は「先代や前任者から身分・仕事・財産などを受け継ぐ事」とされ、目に見えるものや具体的なものを引き継ぐイメージです。
後継者へ「継承」を行うのは具体的なものばかりなので比較的簡単に行えます。しかし、「承継」は権利や義務、精神など目に見えないものが含まれるため、非常に難しいと言われています。
そのため後継者に「継承」はできたものの、肝心の「承継」に失敗し、組織にとって大切なものが後世に引き継がれない事が往々にしてあります。直政は、堀家の存続のために誠心誠意尽くしますが、その想いは息子たちに「承継」できませんでした。
■堀家存続に尽くした直政の事績
直政は、尾張の奥田直純(おくだなおずみ)の子として生まれます。従兄弟にあたる堀秀政の家臣となり、堀の苗字をもらい堀直政と名乗るようになります。秀政と共に織田信長(おだのぶなが)に仕え、その後は豊臣秀吉に従い、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦い、小田原征伐まで従軍し武功を上げています。
秀政が亡くなると、秀吉は嫡子秀治が幼少であることから家督の承継を渋りました。これには、かつての織田家の同僚たちの力を弱めたいという狙いもあったかもしれません。直政は次男の直寄を秀吉の元に派遣し、生前の秀政の功績を訴えて交渉に成功します。そして、直寄をそのまま秀吉の小姓として仕えさせます。これは堀家安泰のため、秀治の代わりとしての人質という側面もあったと考えられます。
その後は上杉景勝(うえすぎかげかつ)の会津国替えに絡んで、堀家の越後転封にも付き従い、三条5万石を領します。関ヶ原の戦いでは、上杉家に加担すべきという直寄の意見を避け、「太閤の恩ではなく、信長公からの恩から始まった」と、東軍に付き上杉家と対峙します。これは長年の経験から、権力の移り変わりを察しての決断だったと思われます。
ただし、直政は豊臣家への配慮も欠かさず、家康の命を受けて高台寺の建立にも尽力し、その経費の半分を出したと言われています。
一方で、徳川家との紐帯を強化し堀家の安泰を図るため、秀治の嫡子忠俊(ただとし)に秀忠の養女を妻として迎えます。直政は堀家安泰のため、徳川家の一門衆や譜代の扱いを狙っていたようですが、これは叶いませんでした。
1606年に秀治が若くして亡くなると、引き続いて幼少の忠俊を家老として支えます。直政の強力な政治力により、堀家は安泰かのように思えましたが、2年後に直政が死去すると、家中で争いが起こります。しかも、それは直政の息子同士による、骨肉の争いでした。
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