家康が一番隊を志願した「姉川の戦い」
史記から読む徳川家康⑮
そして同月19日に、信長は義賢に依頼された杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう)という者に狙撃された。しかし、体をかすめただけで命に別状はなく、同月21日に、無事に岐阜城へ帰還している(『信長公記』)。
一方、家康も同月18日に岡崎城に帰城した(『家忠日記増補』)。
この頃の家康は居城を岡崎城から移転していたとされている。というのも、家康は遠江支配を確固たるものにしようと、前年の1569(永禄12)年には遠江・見付(みつけ/静岡県磐田市)に居を移しており、同年秋には城之崎城(静岡県磐田市)の普請を開始している(『当代記』『三河記』)。
見付は国府や守護所が置かれるなど、遠江国の政治の中心地であったため、この地を拠点とすることを決めたようだが、翌1570(永禄13)年正月に、城の完成を待たずに突如として浜松城に居城を移した(『家忠日記増補』『東照宮御実紀』)。浜松は当時、引馬(曳馬、引間とも)と呼ばれた地で、商業の盛んな土地だった。
居城を移した理由について、一般的には、警戒していた武田信玄の侵攻に備え、天竜川を背にする戦術的な不利を解消したとされる。あるいは、信長の意見を受け入れたとする説もある。なお、その後も見付の城の普請は続けられ、同年春には完成した(『当代記』)。
ちなみに、家康が本拠を浜松に移したのは同年6月とする説もあり(『当代記』)、時期は判然としていない。
いずれにせよ、家康が居城を移してからまだ間もない頃に勃発したのが姉川の戦いだった。
同年6月11日に、家康は信長から「来る25日、26日に関ヶ原まで出馬願う」との援軍の要請を受ける(『東照軍鑑』)。家康は5000の兵を率いて出陣(『甫庵信長記』『寛永諸家系図伝』『甲陽軍鑑』)。出陣したのは同月22日か、23日のことらしい。
織田軍は同月24日に龍ヶ鼻(滋賀県長浜市)に着陣(『信長公記』)。同日に家康も合流し、龍ヶ鼻に布陣した(『当代記』)。家康が信長と合流したのは27日とする説もある(『安土創業記』)。
合戦の前日に、家康は「ぜひ一番隊をお命じください」と信長に依頼している。すでに一番隊は織田家家臣の柴田勝家(しばたかついえ)、明智光秀(あけちみつひで)、森可成(もりよしなり)などと決まっていたが、家康は決して引き下がらなかった。そればかりか「自分の希望が叶わないなら、兵をまとめて引き上げる」とかなり強硬な態度に出たという(『三河物語』)。
すでに編成されていた家臣たちから抗議を受けたものの、結局、信長は家康の意見を受け入れている。果たして家康の希望通り、姉川の戦いは西に布陣した朝倉軍に対し、家康の軍勢が一番隊となった(『信長公記』『三河物語』「津田文書」)。
合戦は同月28日の明け方に戦端が開かれたとされる(『信長公記』)。激戦が繰り広げられたが、家康の軍勢が敵陣深くに攻め入ったため、敵方は敗走(『三河物語』)。結果、主だったものだけでも1100もの首を討ち取った織田・徳川連合軍の勝利に終わった(『信長公記』)。
信長は「今日の合戦は、家康の手腕でわたしも名をあげた」と喜んだという(『三河物語』)。なお、浅井・朝倉連合軍は9600もの討死を出したとされる一方、織田・徳川連合軍側も5000あまりの兵が戦死したといわれる(『言継卿記』)が、この数については懐疑的な声もある。いずれにせよ、「野も田畠も死骸計に候」(「細川藤孝宛織田信長書状」)という有様だった。
浅井・朝倉連合軍は小谷城(滋賀県長浜市)を目指して退却(『当代記』『落穂集』)。信長らは追撃したが、小谷城が高い山の上に立つ要害堅固な城だったため、城攻めを断念したという(『信長公記』)。
『三河物語』を著した大久保忠教(おおくぼただたか)は、「『勝って兜(かぶと)の緒を締めよ』と、余勢をかっていっきに押されない方だった」とこの時の信長を評している。
- 1
- 2