「徳川家康の懐刀」といわれた本多正純が失脚した『宇都宮釣り天井事件』の黒幕は家康の長女・亀姫⁉
歴史に残るあの事件の黒幕【第1回】
江戸時代初期、老中・本多正純(ほんだまさずみ)が失脚した「宇都宮釣り天井事件」。この事件、実は徳川家康(とくがわいえやす)の長女で、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の姉・亀姫(かめひめ)が深く関与していたのである。

宇都宮城は、事件後調査を行ったが、天井が落ちてくるような仕掛けは見つけられなかったという。(「日本古城絵図 東山道之部(5)174 下野国宇都宮城」国立国会図書館蔵)
徳川家康の息子は、織田信長(おだのぶなが)の命によって自死させられた長男・松平信康(まつだいらのぶやす)、2代将軍となった秀忠、御三家の祖となった義直(よしなお)、頼宣(よりのぶ)、頼房(よりふさ)など11人いた。では、娘は? というと、一番名前が通っているのは、おそらく長女の亀姫であろう。
亀姫は、永禄3年(1560)に駿府で誕生した。母親は、正室の築山殿(つきやまどの/瀬名)。岡崎で育ち、天正14年(1576)、三河新城城主であった奥平信昌(おくだいらのぶまさ)と結婚した。この時、17歳なので、当時としては、早いとはいえない。結婚相手の奥平氏はもともと今川氏に仕えていたが、桶狭間の戦いで今川義元(いまがわよしもと)が横死(おうし)、今川氏の力が衰えると徳川家康の麾下(きか)に入った。しかし、元亀元年(1570)に起こった武田氏との上村合戦で、徳川氏とともに戦っていた遠山氏が敗れると、武田氏側についた。有力国人奥平氏を自分の陣営につけたい徳川家康が、織田信長に相談したところ、亀姫を嫁がせるのがよいと答えたという。
当時の結婚はほとんどが政略結婚である。こう書くと女性は親のいうことを唯々諾々と聞くだけのように思えるかもしれないが、女性は婚家と実家の間をうまく取り持つことや、婚家の様子を探って実家に報告するという重要な役目を担っていたのである。
亀姫を迎え入れるにあたり、武田氏を裏切ることになった奥平氏は、武田氏の人質になっていた信昌(のぶまさ)の妻などが処刑された。だが、そんな犠牲を払ってでも奥平氏が徳川氏と組もうとしたのは、武田信玄がもう長くはないという重要機密を知っていたからだろうか。亀姫が4男1女を産んだこともあり、奥平信昌は、側室を持つことはなかった。もっとも亀姫は気の強い女性だったと伝わるので、側室を持った場合はいろいろと大変だったのかもしれない。徳川家康の娘婿ということもあり、奥平信昌は、関ケ原の戦い後、それまでの3万石から10万石に加増され美濃加納に入った。
長男の家昌(いえまさ)が下野宇都宮(しもつけうつのみや)藩主、次男は早世したものの、三男・忠政(ただまさ)が父の跡を継いで加納藩主となり、四男は徳川家康の養子に入って松平忠明(ただあきら)と名乗り大名となった。一人娘も小田原藩主・大久保忠隣(おおくぼただちか)の嫡子・忠常(ただつね)に嫁ぐ。息子・家昌の領地・宇都宮で自適な生活を送っていた亀姫に、慶長16年(1611)に届いた娘婿大久保忠常の訃報が暗い影を落とす。病死だとされているが、実は当時老中を務めていた本多正信(まさのぶ)が息子の正純と図って政敵大久保忠隣の息子忠常を暗殺したといううわさが立ったのだ。
慶長19年(1614)10月1日、三男・忠政が、急な腹痛を訴えて死去。そのわずか10日後に、今度は長男の家昌が、大坂の陣へ出陣前に急死。このため、亀姫は、わずか7歳の家昌の子・忠昌とともに下総古河(しもうさこが)に移る。宇都宮は日光東照宮に参拝する将軍が宿泊するところで、幼い忠昌ではその任に堪えられないという判断だったようだ。あとに宇都宮に入ったのはあの本多正純。彼女の中では、1度ならずに2度までも自分のおなかを痛めた子供が本多正純の出世のために犠牲になったという恩讐(おんしゅう)が煮えたぎっていたに違いない。夫の奥平信昌は相次ぐ息子の死がショックだったのか、翌年慶長20年(1615)に亡くなっている。
そして、元和8年(1622)、ある事件が起こる。徳川家康の七回忌で日光を訪れていた二代将軍・徳川秀忠が、その帰り道、宇都宮を通過して、その先にある壬生(みぶ)に宿泊先を急遽変更したのだ。これには本多正純が、居城の宇都宮城の天井に細工して、秀忠を亡き者にしようとしているという密告があったのだという。世にいう宇都宮の釣り天井事件である。その後、秀忠は、本多正純に11箇条からなる罪状嫌疑を突き付け、さらに追加の3箇条について回答するように迫ったが、正純は追加の3箇条について答えることができず、領地は召し上げられ、出羽・横手へ流された。
秀忠に密告したのは、姉の亀姫。彼女が弟に頼んで、本多正純をはめたのだという。秀忠もまた、家康や本多正信が亡くなって正純を諫(いさ)める者がいなくなって、権力を掌中に収めたかのようにふるまう正純を煩わしく思うようになり、2人の利害が一致したようだ。正純が失脚したことにより、亀姫の孫忠昌が宇都宮に戻る。やっと溜飲を下げることができた亀姫は、寛政2年(1625)、三男の子・奥平忠隆(ただたか)が藩主を務める加納で66年の生涯の幕を閉じた。

現在の宇都宮城。1868年に起こった幕末の戊辰戦争で焼失したのち、2007年に宇都宮城址公園として本丸の一部が外観復元された。