「大奥女中」の人生と手厚い年金、商人たちとのネットワーク~一生奉公とは引退後も一生面倒を見てくれるということ?~
女の園・大奥の謎【第8回】
10代半ばで奉公に上がり、自由を制限された人生を送る大奥女中たち。彼女たちはそれに見合うだけの手厚い年金が支給されていた。

大田南畝(おおたなんぽ)と同時期に活躍した狂言師。本業は道具屋の主だった。妻も含め大奥や武家屋敷の奉公経験者が身内に多くいた。
山田早苗像/国文学研究資料館蔵
大奥は、一生奉公だったといわれるが、本当だろうか。じつは、死ぬまで大奥に勤める者は少ない。大奥での役職が低い者は、11年勤めると暇といって退職となる。対象者は、豪農や商家の娘が多く、彼女たちは大奥勤めを花嫁修業の一環としてとらえていた。当時、大奥奉公経験者たちには良縁が舞い込むとされていたからだ。
どうしてかというと商家の場合、大奥勤めが商売に役立つからだ。江戸時代の狂歌師(きょうかし)山田早苗は、道具商「山田屋」の6代目の主で、本名を黒田庄左衛門徳雅という。山田屋は当時大店とよばれていた大企業ではなく、今でいうところの中小企業レベルの商店であった。
そんな山田屋だが、後に島津家に嫁いだ竹姫の御用達となった。大奥では、個人で出入り業者を選ぶこともできたからだ。その後、一橋家、江戸城大奥本丸御用を請けるまでになった。これには大奥勤めだった徳雅の祖母の存在が大きかった。
大奥に勤めていた女性たちは、やめても同僚たちと手紙のやり取りをしていた。また、場合によっては退職しても大奥に出入すること画可能だったので、徳雅の祖母は、大奥に売り込みに出かけたのかもしれない。こうした奥女中のネットワークを商人たちは注視していたのである。
大奥奉公をすれば、農民や商人、職人の娘でも武家との結婚も可能だったという。武家の方でも、大奥奉公していた女性は、武家のしきたりを理解し、人を使うことができ、さらに人付き合いも上手にこなすと考えていたようだ。
例えば、幕末に外国奉行としてロシア使節との交渉を担当した川路聖謨(かわじとしあきら)は、生涯に4度結婚している。最初の妻とは死別、2番目と3番目の妻とはうまくいかず、4度目に娶(めと)った妻が、大工の娘として生まれ、11代将軍家斉(いえなり)の娘末姫(すえひめ)が安芸浅野家に嫁ぐ時に従ったたかである。花、茶、和歌の素養があり、明るく、家のことを上手に取り仕切る彼女は聖謨にとって理想の妻だったようだ。夫婦仲は良かったものの、たかが子どもを産むことはなかった。しかし、なさぬ仲の子どもたちとの関係も良好で、使用人も含めて一家がたかを中心にまとまっていた。
もっとも、退職して結婚したものの、夫が死んでしまったり、様々な理由から離婚したりしてしまうことある。そうした女性の中には再び大奥奉公する者もいた。
一方、役職の高い者たちは、仕えている主が亡くなるまで勤めることになる。一生奉公とは自身ではなく、仕える主の一生なのだ。もっとも、退職を強要されることはないので、大体の3分の1ほどが勤めを続けた。
主が亡くなった時、勤務年数が30年を超えている場合には、髪を下(おろ)すことを許される。髪を下すということは、亡き主の菩提を弔うことを意味し、名前も院号などふさわしいものに改める。彼女たちは現役時代と遜色ない手当(年金)が支給された。勤務年数が30年以上でも病気などでやめる場合には現役時代に与えられていた切米(きりまい/基本給)か合力金(こうりょくきん/衣装・化粧手当)のどちらか多い方を支給される。例えば一番役職の高い上﨟(じょうろう)の場合、切米が50石、合力金が60両だから、合力金の分360万円となる(1両=12万円で換算)。
これだけあれば、江戸市中に家を借りても十分暮していけたであろう。中には、御用屋敷の中で生活している者もいた。上﨟や使い番は在職中に屋敷を拝領することがあり、長く勤めて功績のあった奥女中は、養子をとって自分を始祖とする家を興すことができたという。
こうした手厚い年金も、幕末の財政難のあおりを受けて嘉永7年(1854)に縮小されてしまった。