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勤務先が男子禁制の大奥!? 大奥に出入りできた男性たち

女の園・大奥の謎【第10回】


たとえ猫でも、将軍以外の雄(オス)は入ることができない江戸城の奥に設えられた女の園「大奥」。だが、実際には大勢の男性が多くに出入りしていた。


千代田之大奥 御煤掃(東京都立中央図書館蔵)
年末の大掃除、煤払いの様子を描いたもの。煤払いは、12月13日と決まっており、終わると胴上げをすることになっていた。この図で胴上げされているのは、大奥に勤めていた男性の役人である。

  大奥は将軍以外の男子禁制の女の園だったといわれているが、本当だろうか。実は、将軍以外の男性も大奥に出入りしていたのである。

 

 まず、大名家へ養子にいった将軍の子どもたちを上げることができる。彼らは大奥で生まれ育ったのだから、実家に帰省するようなものだろうか。また、御三卿(ごさんきょう)の当主も大奥に入ることができた。一般に田安家、一橋家、清水家といわれているが、いずれも徳川姓を名乗っていた。一族が徳川ばかりなので区別しにくいことから、一橋門の近くにあった家を一橋家というように通称で呼ぶようになった。御三卿は大名ではなく、あくまでも将軍の身内という扱いだった。そのため大奥への立ち入りを認められていたようだ。身内ということでいうと、大奥に勤める奥女中(おくじょちゅう)の親戚で9歳以下の男子も可能であった。

 

 このほか仕事上の都合により大奥に入る者もいた。

 

 たとえば、幕府の政務を取り仕切る老中は、将軍の正妻である御台所(みだいどころ)に呼ばれた時や奥女中の任免の伝達や情報交換のために、大奥の実務面でのトップ年寄(としより)との面会に大奥に出向くことがあった。

 

 将軍を診察する奥医師は、将軍の家族を診ることも仕事であったから、当然大奥にも往診する。屋敷の修理のために大工も大奥へと出かけて行く。建物だけでなく建具も手入れをすることもあり、襖絵(ふすまえ)を描くため奥絵師も大奥に行くことがあった。

 

 さらには、職場が大奥という者たちもいた。その筆頭が留守居である。もともとは将軍が戦などで江戸城を不在にする際に、江戸城と城下を預かる臨時の役目であったが、それが常設されるようになってから役目が替わり、大奥の取り締まりなどを行うようになった。町奉行や大目付(おおめつけ)などの重い役職についていた旗本が任命される名誉職で、旗本ながら城主格というから5万石ぐらいの大名の待遇であったという。

 

 この留守居役の配下に広敷向(ひろしきむき)の役人たちがいた。広敷向とは大奥の事務や警備を担当する男性たちが詰める場所のこと。事務方は広敷用人で、このさらに下に大奥で使用する道具を購入・管理する広敷用達、御年寄が代参する時に警備に着く広敷侍、庶務を担当する広敷御用部屋書役などの男性たちが働いていた。

 

 一方番方は、広敷番之頭がトップ。その配下に広敷を通る人を調べる広敷添番(ひろしきそえばん)、広敷番並、広敷と奥向の境である錠口(じょうぐち)や広敷と奥女中たちの生活空間である長局(ながつぼね)の境にある七ツ口を警備する広敷伊賀者(いがもの)、廊下の掃除や奥女中たちの住む部屋の煤払(すすはら)いをする広敷下男(げなん)などがいた。この広敷下男であるが、奥女中たちの用を請け負う代わりに食べ物や何かを受け取る者がいたようだ。また、奥女中たちが彼らを部屋に引き込むという噂もあった。

 

 このほか、江戸城内で荷物の運搬や土木工事、堀割の掃除といった雑用をこなす黒鍬之者(くろくわのもの)がいた。仕事の中には塵壺(じんこ)と呼ばれていたゴミ箱の中身を回収することも含まれており、この時奥女中たちから様々な心づけを貰うことが多く、絹物を着るなどゆとりのある生活を送る者もいたという。

 

 大奥は確かに女の園であったが、その園を支えるために実は多くの男たちが働いていたのである。

 

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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