家康も呆れた佐竹義宣の「律儀」さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第17回
■義宣の「律儀」な選択
義宣は三成や景勝と共に行動しようとしますが、父義重や佐竹義久など重臣たちは反対の立場を取ります。三成の助力で、義宣は佐竹家中での発言力を増していましたが、いまだに義重や重臣たちの存在も大きいため、その意見を無視することができません。当然、父である義重への遠慮や義理もあったと思います。
とはいえ、家康率いる東軍へ寝返る事も律儀な性格からは憚(はばか)られるため、義久に300騎ほど付けて上田城を攻略中の徳川秀忠(ひでただ)軍に送るだけに留めています。
こうした経緯で、義宣は関ヶ原の戦いには積極的に参加せず、不戦中立の立場を取りました。
そして東軍勝利に終わると、御家存続のため義重は上洛し、家康に不戦を謝罪し許しを乞いますが、義宣は謝罪を拒否し水戸から一歩も動きません。ようやく家康のいる伏見に赴いたのは、関ヶ原の戦いから2年後でした。律儀であるが故に、この主導権争いでしかない私戦に納得できなかったのかもしれません。
ちょうどこの頃に、家康から「佐竹義宣ほどの律儀者をみたことはない。しかし律儀すぎて困る」と言われたという逸話が残っています。
佐竹家は最終的に改易を免れますが、出羽秋田20万石への減転封となります。
■「律儀」な義宣への評価の変化
転封が決まった義宣は、積極的に家中の改革を進めていきます。
減転封を理由に、一門や譜代の石高を削減して発言力を弱めています。また、家柄や出自に囚われずに梅津政景(うめづまさかげ)や渋江政光(しぶえまさみつ)たちを積極的に採用したり、政策に反対する譜代家臣を粛正したりするなど、佐竹家の存続のため果断な処置を取っています。
その後、義宣は幕府から丁重に扱われる事が増えていきます。
特に、二代将軍の秀忠にはその律儀さを評価され、茶会に招待されたり丹頂(たんちょう)鶴を拝領したりしています。福島正則(ふくしままさのり)の改易騒動の際には、伊達政宗(だてまさむね)や上杉景勝と共に対応策に関して意見を聞かれています。
現代でも、律儀な人間は堅苦しく思われることもありますが、敵味方の枠を越えて信頼されることも多いと思います。
もし、義宣が当初から東軍に味方していれば、その律儀さにより幕府で藤堂高虎のように重用されていたかもしれません。
義宣の事例は、「律儀」が招く弊害と恩恵を示す良い例だと思います。
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