出世街道を突っ走った大納言「伴善男」が転落した理由
鬼滅の戦史117
謀がバレて流罪後、疫病神に
ところが、である。この御仁、思い通りの人生を歩んで気を良くし過ぎたせいか、少々調子付いてしまった。当時左大臣であった源信(みなもとのまこと)の追い落としを図ろうと、信が反逆を企てていると、濡れ衣を着せて訴え出たのだ。
ちょうど頃合いもよく、平安京の官庁街の正門にあたる応天門が焼失するという事件が起きた。善男は、これもまた信の仕業であると騒ぎ出したから、さあ大変。それが事実だとすれば、犯人は大逆罪、つまり斬刑が避けられないからである。ともあれ、その結果、どうなったか。それを知るには、応天門の変を題材として描かれた『伴大納言絵巻』を見るのが一番だ。そこには、炎上する応天門とともに、無実の罪で捉えられる源信、それに続いて喧嘩をする子供達の姿に加え、検非違使に捕らえられる善男の姿まで描かれている。
そう、もうお分かりかと思うが、応天門に火を点けたのは、実は善男本人だったのだ。その陰謀があからさまになったきっかけが、実は子供の喧嘩だったというのが面白い。とある舎人の子供が、善男に仕える出納(すいとう)係の子供にいじめられたのが始まりであった。
いじめられたことを耳にして激怒した父の舎人が、喧嘩相手の子の父である出納係に向かって、「俺が秘密をばらせば、大納言の首など吹っ飛んでしまうんだぞ!」と言ったのだ。その舎人というのが、応天門が焼失した直前、伴善男が大天門近くから、足早に走り去るのを見ていたからであった。その時は、善男が火を点けたに違いないとは思ったものの、あまりにも恐ろしいことゆえ、黙っていたというのだ。それでも、我が子がいじめられたとあっては我慢ならず、とうとう声高に叫んでしまったのだ。
結局、伴善男の嘘はバレた。悪事は裁かれ、罪一等を許されて伊豆国に配流。その子の中庸まで隠岐国に流された(応天門の変)。そして善男は、その2年後に亡くなったとのこと。
おそらく、位人臣を極めようとしていた彼にとって、それは実に悔しいものであったに違いない。源信ら事件の関係者の多くが、善男の死と前後して相次いで亡くなっていったというのも、不気味といえば不気味であった。それが善男の生霊あるいは死霊によるものと思われたとしても不思議ではなかった。
かの『今昔物語集』にも、善男が疫病神として登場(巻二十七第十一話)する。夜道を歩くとある料理人の前に現れ、自らの境遇を語るのだ。ただし、特段危害を加えるという風もなく、ただ恨みつらみを吐き捨てるように語って消えていくというだけ。かつて肩で風をきって歩いていた御仁だけに、その様相が何とも哀れとしか言いようがないのである。
- 1
- 2