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将軍が家臣の「主従」と「序列」を確認した年中行事

「将軍」と「大奥」の生活⑳

■江戸封建社会において年中行事が果たした役割


諸大名に菓子を配る「嘉祥」の様子。右から3人目の人物が将軍。大広間に羊羹や饅頭など、2万個を超える菓子を並べて、大名や旗本に与えたという。『千代田之御表 六月十六日嘉祥ノ図』国立国会図書館蔵

 嘉祥(かしょう)は、暑中見舞いの意味をもつ節句。玄猪は亥子(いのこ)などともいい、10月亥の日に餅を食すると、万病を除き子孫繁盛するという故実にちなむものである。嘉祥では拝謁した大名や旗本に御菓子が、玄猪では餅が配られた。

 

 以上の行事は、将軍との親疎(しんそ/親しいこと、または逆に疎遠なこと)や大名の格式を基準に、拝謁日や部屋、座次、献上物の置目(おきめ/規定)に違いが見られる。また年始の祝いでは、諸大夫(五位)以上か以下では、ひとりずつ拝謁する独礼と集団で拝謁する立礼など、まったく異なっていた。

 

 また、大名への謁見はないが、端午(5月5日)、重陽(ちょうよう/9月9日)、歳暮(12月28日)の節句ごとに大名から時服(じふく)の献上を受けるが、それを受け、将軍は答礼の印として自身で花押や朱印を付けた御内書という文書を交付した。その書札礼(しょさつれい)も家格により異なっていた。

 

 つまり、年中行事を通じ、将軍は家臣との主従関係や序列を確認したのである。封建社会において、これは重要な意味を持っていた。

 

 これに徳川宗家の家長として祭祀をつかさどる宗教行事などを加えると、1年のうち多くの日が行事に費やされることになる。しかし、それは「公方」として、そして徳川宗家の惣領として、また、将軍家の成り立ちや支配の正当性を守るために、欠くことなく主催しなければならない行事であった。言い換えれば、これらの行事を営み続けることが、将軍の職務だったということになる。

 

監修・文/種村威史

『歴史人』202110月号「徳川将軍15代と大奥」より)

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