将軍が町人らと触れ合う「武芸上覧」や「町入能」が開かれた理由
「将軍」と「大奥」の生活⑱
■武芸上覧を開催した目的とは?

流鏑馬も上覧した
享保9年(1724)、吉宗が小笠原流20代常つね春はるに奥勤めの武士達に流鏑馬や笠懸の稽古をつけることを命じるなど、将軍と流鏑馬の関係は深い。『千代田之御表 流鏑馬上覧』国立国会図書館蔵
武芸上覧は、将軍が己の親衛隊がどれだけ武芸に精進しているかを見る行事である。泰平の世における武の喚起といえよう。8代・吉宗(よしむね)の頃から定式化されたようである。以下は、深井雅海氏が紹介した(『江戸城』中公新書)天保13年(1842)9月24日、12代・家慶(いえよし)が行なった武芸上覧の記録である。
実施場所は、江戸城白書院である。鎗術16組(32名)、剣術27組(54名)、柔術7組(14名)、長刀1組(2名)、計51組、102名が参加した盛大な大会であった。
務めた(出場した)者は、書院番組・小姓組・新番・大番・旗本からなる「五番方」である。ここに先の武芸上覧の狙いを見ることができる。将軍に近い者たちの精進ぶりを見届けるのである。また、対戦相手を務めた者には武芸者の惣領や御目見得以下のものも含まれていた。特に後者が将軍に上覧されることは、大変に名誉なことであった。
武芸者と対手は白書院の広縁(ひろえん)で武芸を披露。将軍は白書院下段に座り、そのほか御三卿や側衆・小姓・小納戸は帝鑑之間に座す。老中・若年寄・大目付はその入側に着座。武芸者と対手は披露が終わると、それぞれ松之廊下を通り退出する。
また、将軍参加の行事に、町人が招かれることもあった。町入能(まちいりのう)である。将軍宣下や婚礼、嫡子誕生などの慶賀(けいが)の場で催される能を、江戸の町人たちが、将軍とともに鑑賞することであり、将軍が町人の健在ぶりを確認できる重要行事でもあった。
参加資格のある町人たちは、大手門より入り、役人より傘を1本ずつ渡される。これが入場許可の印にもなる。観覧は江戸城大広間の庭上で、中段にいる将軍と能を楽しむのである。本来は無礼があってはならないが、この日に限っては多少の無礼は許された。一方、町人も、将軍の顔を拝めて光栄な気持ちを味わったことであろう。能の終了後、将軍より御銚子入りの御酒が下賜された。
町人にとっては、この行事に参加することはこの上なく名誉なことであるが、時代も進むと、名代と称して、江戸周辺の農村の名主が参加権を譲り受けて参加するなど、参加権は物権化していった。
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