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将軍が大奥幹部から挨拶を受ける朝の「総触」

「将軍」と「大奥」の生活⑪

 また稀な例として、14代・家茂(いえもち)は総触を2カ所で行なうこともあった。一カ所は御台所の和宮(かずのみや)に対して、もう一カ所は天璋院(てんしょういん/篤姫/あつひめ)に対してのものである。

 

 家茂は紀州出身だったが、将軍に就いたうえは天璋院が(義理の)母にあたる。だが、皇室出身の和宮と薩摩の武家出身の天璋院は不仲だったという説があり、こうした事情は勝海舟(かつかいしゅう)も『海舟座談』で述べている。後に慶喜(よしのぶ)が15代将軍に就任して大奥を改革しようとした際は、天璋院と和宮は協力して反対しているので、この頃には不仲は解消されていたらしい。

 

 ちなみに慶喜の正室だった美賀子(みかこ)は、慶喜が将軍在位時のほとんどの時間を京都で政務に忙殺され、江戸城を留守にしていたため、自身も大奥に入ることがない唯一の御台所となった。その結果、慶喜も一度も総触を行なうことはなかった。

 

 大奥で挨拶を受けたのち、将軍は中奥へと戻る。また、奥女中は6日に1度は総触のあと、表で奥医師の診察を受ける慣習があったという。

 

 なお、大奥は女性しか入れなかったと思われているが、実は男性もいた。御広敷に詰めていた大奥役人である。昭和40年(1965)に刊行された『幕末の武家』に、大奥役人たちに関する記載がある。

 

「大奥にはちょうど御表に男子がそれぞれの職務を執っているが如く、婦人を以てそれぞれの職を充たして何御用にも差し支えなく、従って猥(みだ)りに男子の立入るを許さないが、もし公用あって貴賤(きせん)となく、大奥へ立ち入らねばならぬことがあれば、またここに、これを按検(あんけん)する役がある。それは男子が勤めるので、その役所は御広敷と称える所に設けてある」

 

 だが、もちろん彼らは総触に出席していない。

 

監修・文/種村威史

『歴史人』202110月号「徳川将軍15代と大奥」より)

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