徳川歴代将軍が好んだ食材とは?
「将軍」と「大奥」の生活⑨
■将軍の食事は総勢80人ほどの調理場で作られていた

江戸後期の料理本『魚類精進 早見献立表』にある挿絵。左の人物(調理場の責任者)が、季節ごとに最良の魚類・精進(菜食)の献立を指示している。江戸城台所の様子を描いたものではないが、おおむね同じような光景が展開されていたと考えられる。国文学研究資料館蔵
朝食は奥医師の診断が終わると、小姓の再び「モウ」という触れで準備が始まった。将軍の食事は御膳奉行が担当した。御膳奉行は若年寄の支配である。定員は2名以上の複数がいたとみられている。
奉行の下に台所役人がいた。将軍が食べる食事を直接調理するのが御広敷膳所台所頭(おひろしきぜんしょだいどころがしら)、御膳や椀・箸などを管理・準備するのが御賄頭(おんまかないがしら)。前者は御家人、後者は旗本の身分で、役料は100〜200俵だった。両者の下に身分を問わず料理の腕の確かな者が採用・配属され、総勢80人ぼとの大所帯だったと思われる。
食事の場は御膳立之間御次(おつぎ)である。食膳の毒味を御膳立之間で行ない、大丈夫となると、御膳番の御小納戸が御次へ運び、御前に出す。御膳の給仕は小姓の役目である。
御膳の内容は、朝食には「汁」と「向付(むこうづけ)」と「平」が出される。「平」とは焼き魚のこと、「向付」は漬物である。時に二の膳も出され、御吸物と「皿」が乗る。「皿」はキスだった。味が淡白なので塩焼きや漬焼きなどに調理された。ただし朔日、15日、28日は、キスに代わって鯛、ヒラメなどが特別に乗った。これが「尾頭付」である。
昼食は大奥、夕食は中奥、大奥に寝泊まりする日は大奥でとる場合もあった。将軍の食事は基本的には中奥で作られるが、大奥で甘煮や水貝などが調理して出されることもあった。奥泊まりの場合は御小座敷(おこざしき)で御台所と一緒に食事をとった。
平日は、入浴が終わると夕食となり、御膳番の小納戸が御膳所より運び、小姓の給仕によって食べる。
将軍の食事は三食とも質素なものであった。時に滋養のために鴨、湯豆腐などが出ることはあるものの、歴代将軍の命日にあたる精進日には、魚肉類は当然ない。鰻の蒲焼がつくこともあったが、油気の抜けたパサパサなものであった。
ご飯は米を笊(ざる)に入れ煮上げたもので、まるで餉(かれいい)のような淡白な味であった。御酒を飲むのは稀であったという。ひとりきりでの食事であるから、御酒を飲んでも楽しくなかったからであろう。酒が好きだったのは12代・家慶であるが、その酒は赤色の味の良くないもので、飲むときは小姓を側に置き飲んだという。15代・慶喜(よしのぶ)は普通のお酒を飲んだ。
将軍は食事にはすべて箸をつけることはなく、残りは、奥の御年寄(おとしより)や御中臈(おちゅうろう)が食したが、表の食事はまずいと不評だったようである。
御前の給仕は小姓の役である。将軍が病気で食が進まない時などは、御膳番の小納戸よりご飯を小姓に渡す。それは小姓が食事の目方を量るためで、その数字を奥医師へ伝え、療養観察をしたものであろう。
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