一門の没落を招いた大友吉統の「意志」の弱さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第14回
■豊臣秀吉にまで及んだ不安
吉統は、1576年の島津家との耳川(みみかわ)の戦いで大敗し、佐伯宗天や田北鎮周(たきたしげかね)など多くの有能な家臣団を失います。この敗戦を受けて龍造寺家が独立した事をきっかけに、九州における大友家の勢力は大きく後退します。
吉統は豊臣政権の救援部隊と共に、戸次川(へつぎがわ)の戦いに参加しますが、島津家の策略にはまり大敗を喫し、ここでも大きな失態をみせます。吉統はまだ家臣たちが、それぞれの居城で島津家と奮戦しているのをよそに、本拠地の府内大友館を捨てて逃亡してしまうのです。
しかもこの時、大友館に残してきた愛妾を救出するよう家臣に頼んだという、当主らしからぬ逸話があります。吉統の行動からは、本拠地を死守しようという意志がまったく見えてきません。
大友家は豊臣政権による九州征伐が成功したおかげで、豊後37万石を安堵され、辛うじて本拠地を維持します。しかし、吉統は1593年の文禄の役でも失態を演じます。
小西隊から救援要請を受けたものの、行長(ゆきなが)戦死の誤報を信じてしまい、また自城を放棄して退却してしまい、同じような失態をみせます。この行為を秀吉から卑怯な振舞いとされ、吉統は改易処分となり、鎌倉以来の御家は取り潰しとなります。
■リーダーにおける「意志」の重要性
吉統の改易は、外征失敗の責任転嫁に利用されたとも言われています。ただ、もし吉統が持ち場を死守し戦線の維持を図ろうという「意志」を見せていれば、豊臣政権に付け入られる隙(すき)を与えなかったかもしれません。
現代でも、リーダーとしての重要な要素として「意志」の強さが挙げられます。「意志」の強さが組織の推進力となり、団結力を生み出します。困難な状況であればあるほど「意志」の重要性は増します。
最後に吉統は、関ケ原の戦いにおいて嫡子義乗や吉弘統幸(よしひろむねゆき)の東軍加担の意見を避けて、自力での豊後奪取の「意志」を示して行動します。この吉統の「意志」の元、統幸を含め各地から旧家臣たちが結集します。この人生最大の賭けは、黒田孝高に阻止され失敗となりますが、最後に鎌倉以来の武門の意地を見せる事ができました。
吉統の例はリーダーにとって「意志」の重要性を知る良い事例だと思います。
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