家康の政略に命運を左右された「娘と養女たち」
学び直す「家康」⑩
■関ヶ原の戦いで毅然とした決断を下した「小松姫」
関ヶ原合戦の関係でいえば、小松姫(こまつひめ)を挙げる必要があろう。
天正元年、小松姫は家康の重臣・本多忠勝(ほんだただかつ)の娘として誕生した。天正10年に甲斐の武田氏が滅亡すると、天正13年に徳川家康が真田昌幸(さんだまさゆき)の籠(こも)る上田城(うえだじょう/長野県上田市)を攻撃したが、失敗した。
結局、豊臣秀吉が仲介に入り、真田氏が徳川氏の与力大名になることで、事態は収拾(しゅうしゅう)した。その際、昌幸の長男・信幸(のぶゆき/信之)は、小松姫を妻に迎えた。小松姫は輿入れに際して、徳川家康の養女となった。小松姫は18歳で、夫の信之は25歳だった。
慶長5年に関ヶ原合戦が勃発すると、昌幸と信之は西軍の豊臣方に、信之は東軍の徳川方に属して戦うことになった。
昌幸は、信之の子つまり孫に会いたいと考えた。昌幸は上田城への帰途、信之の居城・沼田城(ぬまたじょう/群馬県沼田市)へと立ち寄り、城内の小松姫に孫への面会を申し出た。
大手門に姿をあらわれた小松姫は、鎧に身を包み、薙刀(なぎなた)を手にしていた。そして、「父上であっても敵である、城に入れることはできない」と言い放った。小松姫は、昌幸を孫に会わせたいと思ったかもしれないが、心を鬼として断わり、武将の妻としての意地を見せたのだ。
昌幸らはむなしく引き上げたが、武装した小松姫の侍女(じじょ)たちがあとを追ってきた。そして、沼田城近くの正覚寺(しょうがくじ)へ昌幸らを案内したのである。そこに待っていたのは、昌幸のかわいい孫であった。昌幸はしばし孫との歓談を楽しみ、正覚寺をあとにしたという。
ただ、また、この頃には多くの大名家の妻が大坂に預けられていたので、小松姫は実際に沼田城には在城しておらず、大坂にいたのではないかとの指摘もある。
結局、関ヶ原では東軍が勝利し、信之は上田城を与えられた。その背景には、小松姫の献身的なサポートがあった。元和6年に小松姫は亡くなった。享年48。
監修・文/渡邊大門
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