政略と思惑に満ちた「徳川・織田・豊臣」三家間の「婚姻」
学び直す「家康」⑨
信長の姪・お江と秀忠の結婚は秀吉との関係強化であった
話は少し遡(さかのぼ)るが、のちに2代将軍・徳川秀忠の妻となったお江(ごう)について触れる必要があるだろう。お江は浅井長政(あざいながまさ)とお市の3女で、3姉妹(茶々、初、お江)のひとりである。3姉妹は幼い頃は、秀吉に預けられ、養育された。
天正12年、お江は尾張国大野城主の佐治一成(さじかずなり)と結婚した。当初、一成は秀吉方に味方していたが、突如として秀吉を裏切り、家康と織田信雄に与した。秀吉は一成が裏切ったとの一報を耳にし、激しく立腹した。
そこで、秀吉は側室の淀殿(よどどの)が病気であると理由をつけて、お江を強引に連れ戻した。秀吉は「一成は婿として不足がある」と理由をつけ、ついにお江を一成のもとに戻さなかった。これは、事実上の離縁である。いたく後悔した一成は、反省の意を表し出家したが、ときは遅かった。
お江は1度目の結婚では悲しい思いをしたが、再婚する機会に恵まれた。再婚相手は、秀吉の養子・秀勝(ひでかつ)である。秀勝は、丹波国亀山城(京都府亀岡市)主を務めていた。
秀吉の養子に秀勝は2人いるが、お江の夫は秀吉の姉・日秀(にっしゅう)と夫の三好吉房(みよしよしふさ)との間に生まれた秀勝である。もうひとりの秀勝は信長の子で、天正13年12月10日に亡くなった。お江の夫の秀勝も文禄元年(1592)9月9日、唐島(からしま)で病没した。
そしてお江は、家康の後継者の秀忠と3回目の結婚をすることとなった。
秀吉はお江の3回目の結婚に際して、お江を再び養女にした。あくまで徳川家と結ぶため、豊臣家から輿入れさせるのが目的である。文禄4年9月17日、京都伏見城で、お江は秀忠のもとに輿入れした。
2人が結婚したときの年齢は、お江が23歳、秀忠が17歳のときである。当時としては珍しい「姉さん女房」だった。この婚姻は、秀吉が家康との同盟関係を強化するための政略的なものである。
監修・文/渡邊大門
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