鎌倉殿を支えた「足立氏」「比企氏」「梶原氏」のその後
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑪
梶原氏は讃岐や尾張、武蔵に散り、歴史の表舞台からは遠ざかる

梶原景時
鎌倉幕府侍所所司として御家人たちを評価・取り締まり、それにより御家人66名による連判状が大江広元に提出され追放となった。国立国会図書館
梶原氏は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ鎌倉氏の庶流とされる。梶原景時(かじわらかげとき)が源頼朝(よりとも)に従い、鎌倉幕府の成立後には侍所所司(さむらいどころのしょし)など幕府の要職につくが、頼朝の死後、北条氏らによって追討された。このいわゆる梶原景時の変で、景時と嫡男の景季をはじめとする一族は殺害され、梶原氏の嫡流は滅亡してしまう。
しかし、景時の庶子はその後に赦免されており、次男景高(かげたか)の子孫は荻野氏や上坂氏として残り、三男景茂(かげもち)と四男景義の子孫が梶原氏の家名を残した。
鎌倉時代末期には足利氏に従っていたらしい。室町時代には一族が鎌倉府の奉公衆となり、上杉禅秀の乱では足利持氏方として奮戦している。また、古河公方となった持氏の子足利成氏(あしかがしげうじ)にも従い、江戸時代には、喜連川(きつれがわ)氏に改姓した足利氏の家臣として残ったのである。
なお、太田資正(おおたすけまさ)の子政景(まさかげ)は、鎌倉府の奉公衆梶原氏の名跡を継いだらしい。北条氏と対立する佐竹氏と結び、小田氏と戦っている。
監修・文/小和田泰経
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