世界一安全で公共の秩序を大切にする日本はいつからこのような国になったのか?
幕末~明治の偉人が生んだ制度・組織のはじまり⑰
「違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)」──。あまり耳にしたことがない言葉だが、実は現在の日本人の精神構築に多く関わり、その根幹ともなっている明治政府の政策のひとつであった。
■日本が世界から賞賛される精神をもつようになった理由はここにあった

違式詿違条例
1872年(明治5)11月8日の東京府から出され、同月13日から施行された東京違式詿違条例が日本最初の違式詿違条例となった。(国立国会図書館蔵)
日本は世界一安全で、公共の秩序を大切にする国。このようなイメージは人工的に作られたもので、そのスタートと呼ばれるのが明治5年(1872)11月13日に施行された東京違式詿違条例にある。翌年7月19日には太政官布告による各地方「違式詿違条例」(いしきかいいじょうれい)が制定され、東京以外にも公布・施行されることとなった。
総則5条、違式罪目23条件、詿違罪目25条の計53条からなるこの法は、一言で表現するなら軽犯罪法だが、民間での軽微なトラブルに対して法による権力の介入が明示された点、軽犯罪に不釣り合いな著しく重い処罰が定められた点、取り締まりと処罰が警察に一任された点などを大きな特徴とする。
取り締まりの対象は、乗馬・馬車の疾駆により人を倒す行為、常燈台の破壊、神仏祭事に託した往来妨など、大方の納得を得られるものもあるが、喧嘩口論による騒擾行為、他人の論争に加担する行為、通行人への強力強要など、従来の常識からあまりにかけ離れたものもあった。
当然ながら、違式詿違条例には大ブーイングが浴びせられたが、それでも政府は粛々と取り締まりを推し進め、一歩も引こうとはしなかった。強固な意志が働いていたのである。
その意志の源には使命感があった。日本を列強の一員にすることで、列強による植民地化を回避する。そのためには中央集権化、富国強兵が必要だが、それをなすには日本国民の創出と列強から強いられた不平等条約の改正が不可欠と考えられた。

「鉄道馬車往復京橋煉瓦造ヨリ竹河岸図」
鉄道をはじめ、日本の近代化を進めるなかで日本人の精神の成熟も急務であった。(国立国会図書館蔵)
文明開化も列強に日本という存在を認めさせるための手段で、列強の目に日本はアジアの中でも特別と映るよう、どんな手段を駆使してでも、日本国民の創出と改造を同時並行で進める必要があった。
喧嘩や騒擾は日常茶飯事。モラルも衛生概念もない混沌とした状態を過去のものとするには、強権の発動、重罰主義の徹底もやむをえない。すべては明日の日本のため。
状況証拠からすれば、政府の上層部で意思統一がなされていたことは疑いなく、新たな情報媒体である新聞がいくら反対の論陣を張り、取り締まり現場で民衆からどんなに怒号や罵声を浴びせられても、政府には譲歩するつもりはなかった。
明治政府の強引なやり方が現在の日本、すなわち遺失物の発見確立が高く、自動販売機が破壊されること、24時間営業の店が頻繁に襲撃されることもなく、混雑する鉄道駅のホームでも無秩序に走らないなど、訪日外国人を驚かせ、感動もさせる社会を作り上げたわけでが、この世に良いこと尽くめのことなどありえず、「出る杭は打たれる」風潮、常に周囲の顔色をうかがわねばならない息苦しさの起源もやはり違式詿違条例にある。
小学校では「みなに合わせなさい」という教育が徹底され、「なぜ」という問い合わせには、「皆に迷惑をかけるから」としか答えない。創造性に欠ける人間、自分の頭で考えることのできない人間ばかり再生産させるシステム。違式詿違条例はその始まりでもあった。