我々の生活の基盤「太陽暦」はどのようなプロセスで採用されたのか⁉
幕末~明治の偉人が生んだ制度・組織のはじまり⑮
「今日は〇月〇日だっけ?」といったように私たちは意識していないが「太陽暦」で日付を認識している。これは明治政府によって採用されたことがはじまりである。では、どのような経過を経て、採用されたのかを紹介する。
■現在のカレンダーのルールは意外といい加減に決まった⁉
明治維新では西洋由来の様々なシステムが導入されたが、暦の導入も内定はしていた。清国や朝鮮はいまだ旧暦を使い、列強のなかでもロシアだけは独自の暦を有していたが、他の列強がみな同じ暦で統一されている以上、日本もそれに倣うのが賢明と考えられた、ただし、大きな混乱が予想されることから、いつ、どういうタイミングで実施に踏み切るかが問題だった。

持統天皇
「暦」が日本でいつから用いられたか、はっきりはわかってないが、持統天皇の治世に採用された「元嘉暦」が最初とされる。(国立国会図書館蔵)
日本は元嘉持統天皇の6年(692)の元嘉暦を最初として、都合8回改元を繰り返してきたが、それらはすべて中国の暦に倣った太陰太陽暦だった。江戸時代広範に用いられた寛政暦と天保暦には西暦の要素も取り入れられてはいたが、いまだ太陽太陰暦の域を出ることはなかった。
明治の日本が導入するとなれば、選択はグレゴリア暦の一択だった。カトリックの教皇が定めたものだが、その優秀さから、プロテスタント諸国でも受け入れが進み、世界のスタンダードと化していたからである。
かくして改暦の実行は明治5年11月9日に公表され、同年12月3日を明治6年1月1日にすると定められた。
暦の制作を請け負う業者はてんやわんやで、すでには発効済の分の回収と作り直しで、猫の手さえ借りたい大混乱である。
多くの国民はまだ気づいていなかったが、改暦が突然決まった背後には明治政府の財政事情が絡んでいた。官吏の給与が月給制に変わったばかりであり、天保暦のままだと、来年は閏月があるから、1年間に13回給与を支払わなければならない。
現在の明治政府にそんな余裕はなく、支出はできる限り抑えたい。その点、新暦を導入すれば、閏月はなくなるから、月給の支払いは12回で済む。明治5年の12月も2日しかないから、これも11月に少し色を付ける程度で済ますことができる。
さらに1と6のつく日を休業とする習わしを改め、休みを日曜日と節句などに限定すれば、休業日を年間50日余に減らすこともできる。雇用者側にとって都合のよい改正であるから、政府内でもほとんど抵抗を受けることなく通過して、実施の運びとなったのだった。
中国は朝鮮が新暦と旧暦の併用を続けたのとは対照的に、日本は何もかも新暦に代えた。歴史上の大事件が起きた日付なども、新暦に換算して、その日記念日とした。

『日本書記』
最も古い史書のひとつ。日本の歴代天皇の系譜・事績が記述され、紀年・暦日も記されている。(国立国会図書館蔵)
天皇制の始まりに関する神話も例外ではなく、『日本書紀』では十干と十二支の組み合わせで年月日を表わすやり方が取られた。その背後には辛酉革命説といって、60年に一度訪れる辛酉の年は大変革が起きる年とされていたことから、初代天皇である神武(じんむ)天皇が天皇に即位したのは紀元前660年元日と割り出され、太陽暦に換算すれば1月29日との結果がでた。
ところが、先帝である孝明(こうめい)天皇の命日が旧暦の1月30日なことから、これではあまり近すぎるというので、神武天皇の即位は2月11日にずらされ、明治7年からはその日が紀元節とされた。
敗戦後の1948年には軍国主義の残滓(ざんし)として廃止されるが、1967年には2月11日を建国記念日とする政令が発布されてしまった。
大事な記念日が大した議論もないまま、いい加減な手続きで決められたとわかると、ありがたみも何も吹き飛んでしまいそうだ。

神武天皇
日本の建国記念日は初代天皇・神武天皇の即位した日と定められている。この日付の基準がグレゴリオ暦で推定されたという。(東京都立中央図書館蔵)