牛肉を日本人が食べるようになったのは明治時代⁉ ─牛鍋の歴史と文明開化─
幕末~明治の偉人が生んだ制度・組織のはじまり⑪
明治初期を舞台に描かれた大ヒットアニメ『るろうに剣心』で主人公たちが食べているのが印象的だった「牛鍋」。実際、明治に普及した食べ物だったということをご存じだろうか。それどころか、日本人が「牛肉」を口にするようになったのが、明治だったという。今回はその歴史について紹介していく。
■文明開化のシンボルとして一般にも普及した「牛鍋」

文明開化の様子を記した『安愚楽鍋』に描かれた牛鍋を食べる日本人。牛鍋は文明開化のシンボル的な存在として明治の人々に普及した。(国立国会図書館蔵)
健康のためには肉ではなくもっと魚を。健康志向が強い日本にも関わらず、この呼びかけだけは受けが悪く、日本人の魚消費量は増えるどころか微減を続け、それとは逆に肉の消費量が増え続けている。肉のなかでは、牛肉の独走状態が続く。
牛肉料理といえば、牛丼、焼き肉、ステーキ、すき焼きなどがお馴染みだが、事始めをテーマで話をするなら、着目すべきはすき焼きである。その歴史は幕末から明治時代初頭に始まる。
日本では仏教の受容が本格化した奈良時代の頃より、肉食文化が大幅に後退して、食うや食わずの戦国時代を経て江戸時代に入ると、雉や軍鶏、猪などを鍋料理として食べることはあったが、庶民からしてみれば、かなりの贅沢だった。
牛肉に至っては食べるという発想すら珍しく、比較的新しいところでは、天正18(1590)年の小田原の陣に際し、高山右近(たかやまうこん)が蒲生氏郷(がもううじさと)と細川忠興(ほそかわただおき)に振る舞ったことが見える。

高山右近
キリシタン大名として知られる右近。戦国時代、異国の文化に触れる機会がないなか、牛肉を食べていたのもキリシタンの右近であれば納得できる。
このときの肉はおそらく近江牛で、井伊家が当主を務める彦根藩では特産品開発の一環として牛肉の食用化、どうすれば抵抗なく、おいしく食べられるかの研究が重ねられ、貞享4(1687)年にはついに中国・明の医書『本草綱目(ほんぞうこうもく)』を参考に牛肉の味噌漬けが考案され、「反本丸(へんぽんがん)」と命名された。農作業や物資の運搬に欠かせない牛を食用にすることはやはり憚られたため、商品として売り出すのなら、薬として扱う必要があったのだろう。その後、「干牛肉」(いまでいうビーフジャーキーのようなもの)という干し肉の開発も行われるが、これまた薬扱いで、将軍家や大名クラスには重宝されたが、幕末に至る前の牛肉はいまだ庶民の口とは縁のない代物だった。
事態が動くのは欧米人が日本に滞在するようになってからである。彼らにすれば、牛肉のない食卓は寂しく、我慢できなくなったらその都度、牛を飼っている農家と交渉して一頭買い。屠殺、解体から何まで自分たちの手でやることで、欲望を満たしていた。
需要があり、大きな商売になるというので、明治2(1869)年には外国人に直接、肉牛を卸す業者が現われるが、まだ鉄道がないから牛を歩かせていくしかなく、滋賀県から横浜まで17~18日を要したという。
明治12年には牛肉卸売小売業「米久(こめきゅう)」が東京で開業。1日に40頭の牛が捌かれるようになる。

『米久』について記述のある大正期の出版物
大正10年に発行された『近郊名所名物案内』に記された「米久」。「東京の者で米久の名前を知らない者はいない」と記されるほど繁盛したという。数年で26店舗を構えるまでに成長という。(国立国会図書館蔵)
明治15年には神戸港からの海運による牛の出荷が始まり、同23年の東海道本線の開通に伴い、鉄道による牛の出荷も開始される。
この間に牛肉を食べる風習は日本人の間にも広まりだすが、金額はもとより、それよりも問題なのは臭みを消す調理法と味付けだった。多くの人間がさまざまなやり方を試みたが、結局、成功を収めたのは、現在でいう「すき焼き」で、東日本では「牛鍋」の名が一般的だった。

すき焼き
牛肉の流行に貢献したのは近江の商人たちであった。このことが現在でも高級食材である近江牛のブランディングに大きくかかわっていると考えてよいだろう。
現存する店のなかで、最古の牛鍋専門店は、明治16年に銀座で創業した「松喜屋(まつきや)」だろうか。
明治26年に横浜で創業した「じゃのめや」、同28年に同じく横浜で創業した「太田なわのれん」なども、「元祖牛鍋屋」と呼ぶに値しようが、これらに共通するのは遊郭や劇場などが並ぶ歓楽街かその近くに店を構えたこと。創業者たちは時代の流れを見る眼力も一流なら、立地の選択も絶妙だった。