江戸時代に吹き荒れた貨幣資源の海外流失の危機とは⁉
【江戸時代の貨幣制度 第7回】枯渇してしまった日本の金・銀・銅
かつての日本は、金、銀、銅などの鉱物資源に恵まれた国であった。しかし、その資源の多くが江戸時代に枯渇してしまった。大量の金や銀は一体どこへ行ってしまったのか?

幕末に日本に入ってきた海外の銀貨を洋銀と呼ぶ。アメリカでは通貨の鋳造量が少なかったため、普通に1ドル銀貨として使用されていた。そのため、日本にはアメリカから大量のメキシコ8レアル銀貨が流入した。メキシコ8レアル銀貨/日本銀行貨幣博物館蔵
マルコ=ポーロの『東方見聞録』では日本は黄金の国と紹介されている。だが、今の日本に金はない。いったい黄金はどこに行ったの? と思う人が多いことだろう。
江戸時代以前の日本は、金、銀、銅を産出する国であった。金が身近にあったからこそ、金をうすく伸ばした金箔や金粉を利用した蒔絵(まきえ)、割れた磁器や陶器を修理する金継ぎといった技術が発達したのだろう。
では、金、銀、銅はどこに行ってしまっただろうか? その多くは、海外に出て行ってしまったのである。江戸時代の日本は鎖国をしていたものの、まったく外国の交流がなかったわけではない。オランダや韓国など、数少ない国との交易の際、商品の代金として銀貨や金貨が支払われていたのだ。日本が外国から輸入していたのは、絹や生糸、砂糖、朝鮮人参などである。
交易が銀使いの西日本で行われていたことや、中国が銀本位であったことなどから、こうした代金として、最初は銀貨が支払われていたが、幕府は寛文8年(1668)に長崎貿易での銀支払いを停止する。ある研究によれば慶安元年(1648)から寛文7年(1667)の約20年間に28万貫も海外に流出していったというから、こうした処置も仕方ないのかもしれない。
銀貨での支払いが停止されたため、金貨で代金が支払われるようになり、今度は金貨が日本から出ていくことになる。銀貨の支払いが停止されてから元禄9年(1696)までの30年間に91万両余りが、輸入品の代金として支払われたという。こうした事態に、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)は、絹、砂糖、朝鮮人参の国産化を励行した。その結果、幕末・明治には絹や生糸が日本の主要輸出品となり、和三盆(わさんぼん)という日本独特の砂糖が生まれた。
銅は、通貨としてではなく、そのものが輸出品として日本から出て行った。棹銅(さおどう)という棒状に加工した形で海外に出た銅は、各国の通貨などになった。
幕末になって、開国すると日本はアメリカの外交官ハリスとの交渉の結果、日米修好条約を結ぶことになった。この時に取り決められた洋銀1枚と日本の1分銀3枚と同じ価値とするレートが、さらに金を海外に流失させる原因となった。
実は日本は海外に比べて金の価値が低かったのだ。これは金が大量にあったことの弊害かもしれない。日本では銀1に対し、金5の価値があったのだが、海外では銀1に対し金15であった。これを知った外国人たちは、自分たちが持ってきた銀貨を日本の銀貨に替えた。そして日本の銀貨を日本のレートに従って日本の金貨に替えて海外に持ち出して、外国の銀貨に替えると、それだけで元の洋銀が3倍に増えるのだ。この仕組みに幕府も気が付いて、金の含有量を下げた小判を発行すると、金貨の大量流出は収まったという。
しかし、国内的には、この小判のおかげで、金貨の価値が下がり、急激なインフレが起こってしまい、これが幕府への不信感を募らせることになったという。