お金がないなら作って乗り切る…? 江戸幕府が主導した金融政策の功罪とは?
【江戸時代の貨幣制度 第6回】江戸幕府の錬金術「改鋳」の謎
金銀という限られた原材料を「水増し」して、貨幣の流通量を増やす。そんな大胆かつ乱暴な金融政策が、かつて江戸幕府主導で行われていた。その功罪を解き明かす。

万延小判
慶長小判は大きさが710mm×380mm、重さが17.73gあったが、幕末に発行された万延小判は36mm×20mm、重さが3.3gしかなかった。このふたつを同じ価値がある貨幣として使用するというのは、かなりの無理がある。(日本銀行貨幣博物館蔵)
お金がない! あなたならこのピンチをどう乗り越えるか? 家族や友人にお金を借りる、カードでキャッシングする、持ち物をネットで売るなどが今時の対処方法だろうか。
えっ、お金をつくる? それって犯罪なのでは…? しかし、取り締まる側がつくれば、罪に問われることはない。かつて江戸幕府が発行した通貨はいずれも金属でつくられており、しかも材料となる金属は無尽蔵にあるわけではないので、今まで流通していた貨幣を集め、溶かして混ぜ物を大量に加えて資産的価値を落とした貨幣を以前と同じ額面で流通させるという「錬金術」を行ったのだ。
こうした「錬金術」を改鋳(かいちゅう)という。最初に改鋳が行われたのは元禄8年(1695)のこと。慶長20年(1615)の大坂の陣後、平和な世の中になり、人々が贅沢になって生活に金がかかるようになった。上方の豪商を中心に絢爛豪華(けんらんごうか)な元禄文化が花開いたのもこの頃である。
その一方で、幕府直轄鉱山から産出される金銀の量が低迷し始めた。お金をつくろうと思っても材料がない。そこで、幕府が市中に出回っていた貨幣を回収し、2枚の慶長小判から重さの同じ3枚の元禄小判を作り出した。
目方を同じにするためには金に混ぜ物をする。混ぜ物を多量に加えれば、金の魅力のひとつである輝きが失われることになる。つまり、一目見ただけで、今までの小判よりも輝きに欠ける小判を、金がたっぷり使われている小判と同じように1両として通用させようとした。
しかし、明らかにこれまでと異なる小判を同額で使いなさいといわれても、人々は納得がいかない。1両と刻印されていても実際には、1両としては通用しなかった。そのせいで、元禄8年に米100俵の値段が28両つまり小判28枚であったのが、2年後の元禄10年には小判が48枚も必要になるという極端な物価高騰を招いてしまい、庶民の生活は苦しくなった。
それでも幕府は、貨幣が増えるということに味をしめて、宝永7年(1710)に再び改鋳に踏み切った。この時は金の含有率を慶長小判と同じにレベルに引き上げたが、重さを半分にした。これにより、1両に含まれる金の量は約76パーセント引き下げられ、一般には「2分小判」と揶揄された。
しかし、2回の改鋳によって幕府の威厳が失墜したとして6代将軍・徳川家宣(とくがわいえのぶ)、7代将軍・徳川家継(いえつぐ)を補佐した新井白石(あらいはくせき)が強く反発。正徳4年(1714)に、通貨の品質を慶長金銀に戻す正徳の改鋳が断行された。
ここで終わればよかったのだろうが、約1世紀後の文政元年(1818)、再び、貨幣の質を落とす改鋳が行われ、さらに天保8年(1837)、万延元年(1860)にも実施された。もはや幕府の財政は、改鋳なくしては成り立たなくなっていたのだ。幕府は改鋳前と同じ価値で改鋳後の貨幣を通用させようとしたが、思惑通りにはいかず、貨幣の価値が下がり、その結果改鋳のたびに激しいインフレが起こり、生活に困窮する人々が増えた。こうしたことが幕府への不満や不信感を募らせることになり、結果、幕府の終焉を招く一因となったとする研究者もいる。