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応仁の乱を契機とした加賀一向一揆の台頭

戦国武将の領土変遷史⑮

謙信は一向一揆と和睦 手取川で勝利するが…

 

 謙信は信長と結んでいたが、信長が長篠で武田勝頼(かつより)を打ち破った頃から疎遠になり、信長を共通の敵として、仇敵であった一向一揆とも和睦し、北陸で激突することになる。

 

 謙信は、天正4年8月、越中へ出陣し、栂尾(とがのお)・増山(ますやま)両城を攻略し、越中をほぼ平定し、12月には能登国へも侵攻。七尾(ななお)城を攻囲したが、さすがの謙信も手こずった。七尾城の危機が迫る中、天正5年8月、信長は勝家を総大将とした北陸遠征軍を派遣したが、手取(てどり)川で上杉軍に大敗したという(異説あり)。

 

 翌年3月、謙信が急死し、目まぐるしく情勢は変化していく。謙信の後継を巡って上杉氏が家督争いをしたため、北陸における上杉氏の影響力は大きく後退し、勝家軍の攻勢の前に劣勢に陥っていく。天正8年に信長は大坂本願寺と和睦するが、締結前に実効支配を拡大するため勝家の進軍はより熾烈化していく。

 

監修・文/和田裕弘

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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