織田信雄と徳川家康の明暗を分けた「市場価値」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第5回
■需要と供給で決まる市場価値
本能寺の変で信長と信忠が同時に死んだことで、織田家の後継者として信雄にスポットライトが当たります。
有力な後継者候補は、次男である信雄と三男の信孝、そして信忠の遺児の秀信の3人でした。信長と信忠が同時に亡くなるという環境変化により、信雄の市場価値が復活した瞬間でした。
清須会議を経て、後継者の座を秀信に譲る事になりますが、その後見人の一人として尾張・伊賀・南伊勢約100万石を手にいれます。この時は、秀信が信忠の直系である点を理由にされたようです。
織田家の宿老たちからすると幼帝の方が担ぎやすいというニーズも見え隠れします。
しかし、その後、信孝が柴田勝家と組んで秀吉と主導権争いを始めた事で、信雄への需要が高まり、急に市場価値も高騰します。
旧織田家臣団の象徴としての役割が期待されていたのでしょう。信雄は秀信の代わりに織田家の家督を継承します。賤ヶ岳の戦いは秀吉方の勝利となり、ライバル信孝も消えました。信長の後継者となれる価値をもつ者は、ほぼ信雄のみとなりました。
この時、需要と供給のバランスにより、市場価値も最高潮になったと思われます。そして、支配地も尾張・伊賀・伊勢の3ヵ国となり、絶頂期を迎えます。この時期に織田政権の第二期が始まったとも言われており、信雄もそう自負していたのかもしれません。
■低下していく信雄の市場価値
その後、信雄は政権内で急速に権力を掌握し始めた秀吉に対抗するために、徳川家康と組んで挙兵します。しかし、秀吉に適うはずもなく、善戦している家康を尻目に無断で降伏してしまいます。この時、諸将は信長による叱責を思い出したかもしれません。
とはいえ、これにより信雄への需要がゼロになった訳では有りませんでした。豊臣政権の正統性を補完する存在としての市場価値がまだありました。但し、豊臣政権が小田原征伐を終え全国統一を果たすと、信雄の市場価値は大きく低下し始めます。
それは諸侯の豊臣家臣化が進んだ事により、織田家の威光を借りる必要がなくなったからです。
そんな信雄に市場価値を高めるチャンスが到来します。小田原征伐で武功が認められ、秀吉から三河、遠江など5ヶ国への加増転封を申し渡されるのです。ここでプライドを捨てて、豊臣政権のために関東の防波堤の役割を担えば、市場価値は高まったでしょう。
しかし、信雄は父祖の地である尾張に拘り、これを拒否してしまいます。
秀吉は信雄を改易し流罪に処します。これは信雄の残っていた市場価値を逆手に取って、秀吉の天下人としてのパフォーマンスに利用されたとも考えられます。
一方、徳川家康は秀吉の意向に沿い関東への転封を受け入れます。
■変動する需要に合わせて市場価値を高める事が重要
家康はプライドを捨て、秀吉に求められている役割を黙々とこなしていきます。そのおかげで、秀吉の信用を得て五大老の筆頭となります。そして、ここで高めた市場価値が、その後の天下取りの足掛かりになります。
信雄も、もし転封を受け入れて役割を尽くしていれば大老の道もあったかもしれません。従妹の淀殿との間に秀頼が生まれると豊臣家の外戚扱いになり、市場価値もさらに上昇していたでしょう。
また、秀次の切腹事件の後に、秀頼に近い信雄の存在はかなり重宝される存在になっていた可能性はあります。
どの時代でも求められている役割をこなし、自分自身の市場価値を高める事は重要です。それには、現在の自分の市場価値を気にかけておくことも大事です。
ただ、その後の信雄は織田家の当主という価値と江や家光のおかげで徳川家の外戚扱いとなり、5万石規模ながらも国主待遇を得るなど、高い家格の扱いを受けます。
こうしてみると加増転封(かぞうてんぽう)を断った事で、自分の能力に見合った地位に落ち着いたとも考えられます。
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