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義時への憎悪から起こった「和田義盛の乱」【後編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑲

一騎当千の強者あり!その名は三郎義秀

 

 御所を焼き討ちしてなお朝比奈義秀の奮戦は続いた。五十嵐小豊次、葛貫盛重、新野景直、礼羽蓮華以下の数名が殺され、和田一族のなかで唯一義時側に加勢した高井重茂も激しい組合いの末に討ち取られた。

 

 相模朝時という武者も負傷して退き、次は足利義氏が相手となる。母が北条時政の娘だから、義氏も政子・義時に近い御家人である。

 

 さすがの義秀も数時間も戦い続けた疲れを隠せず、彼以上に馬の疲労が極限に達していたことから、勝敗を決するには至らなかった。

 

 両軍の死闘は日没後も続けられ、小雨が降り始めた頃になって、兵の体力が尽き、矢の蓄えなくなるに及んで、義盛はようやく命令を下し、全軍を前浜(現在の由比ガ浜)のあたりまで退却させた。

 

 5月3日未明、兵糧もなく、このままでは再戦が不可能な状況下、和田勢のもとに援軍が到着した。武蔵国多摩郡横山荘(現在の八王子市)を本拠地とし、義盛と姻戚関係がある横山時兼(よこやまときかね)以下数十人である。さらに北条氏に反発を抱く中小勢力が多く参集したのか、『吾妻鏡』はこの日の和田勢を軍兵3000騎と記す。

 

 戦闘再開からやや経過した昼前のこと。相模国西部から曽我、中村、二宮、河村の各氏が駆け付けたが、どちらに加勢すればよいか判断できずにいた。実朝の身柄をどちらが確保しているか不明なため、安易に動けずにいたのである。

 

 それを察した義時は実朝の花押(かおう)の記された御教書をつくり、曽我氏らのもとへ使者を遣わした。大義名分がどちらにあるかはっきりしたことで、曽我氏らはようやく安心して去就を決めた。これと前後して千葉成胤(ちばなりたね)も一類を率いて馳せ参じたので、兵力の均衡は完全に破られた。

 

 義盛は再度御所周辺への進撃を試みるが、町大路と名越、大蔵の三方面とも堅く陣を張られ、突破することができなかった。

 

 そこで、主戦場を若宮大路と前浜に移すが、副将格の土屋義清(つちやよしきよ)が討死したのを境に大勢が決する。夕暮れ前、四男義直討死の報に接すると、義盛の抗戦意欲はにわかに萎えた。

 

「長年可愛がってきた義直の出世を願っていた。今となっては、合戦に励むのは無益である」

 

 義盛は声を挙げて嘆き悲しんだのち、死に場所を求めるかのようにあちらこちらを迷走したあげく、江戸能範の郎等の手で討ち取られた。享年67。五郎義重以下、主だった7人もほぼ同時に討死を遂げた。

 

侍所の別当にも就任盤石となった義時の権力

 

 勝敗が決したからといって、むざむざやられる和田勢ではない。朝比奈義秀が船を出して安房国へ落ち延びたほか、和田常盛(わだつねもり)や横山時兼など大将格6人も生きて戦場を脱することに成功した。

 

 しかし、義時と広元はそれをも計算に入れ、御教書を持った使者を、3日の昼前には武蔵国以下の近国に遣わしていた。そこまで手際よくされては逃亡も潜伏も難しく、5月4日には和田常盛と横山時兼が甲斐国で自害。その首は鎌倉に送られ、この2つを含め、片瀬川の岸辺に晒(さら)された首の数は234に及んだという。

 

 残党狩りが続けられる一方、5月5日からは論功行賞も行われ、和田義盛の死により空席となった侍所別当の後任には義時が据えられた。政所別当との兼任であり、この人事は、義時が他の御家人とは大きく一線を画する存在であることを公認したに等しかった。

 

 同日、義時被官の金窪行親(かなくぼゆきちか)が侍所の所司(次官)に任じられた件に関しても、同じことが言える。

 

 承元3年、実朝は年来の郎従を後家人身分に昇進させてほしいという義時の願いを却下している。それが今回は、和田合戦という生命の危機を乗り切った直後で冷静な判断力を失っていたか、それとも義時を特別扱いする必要性を覚えたか、反対した痕跡が一切見られない。

 

 侍所の所司は御家人に命令を下す立場だから、身分上は御家人と同等が原則である。北条氏嫡流家の被官を他の御家人の被官とは別扱いする慣例はここに生まれた。のちの御内人の前身である。

 

 和田合戦を勝利で終わらせた最大の功労者は誰か。総合的な見地からすると、三浦義村とするのが最適のように思われるが、当時の倣いとして、手柄と言えば先陣と大物の首級が一番であった。そのため義村は新たな所領として陸奥国名取郡を得るに留まった。先陣の功を訴えていったのだが、証人がいたことから、そこはあきらめて引くしかなかった。

 

監修・文/島崎晋

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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