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義時への憎悪から起こった「和田義盛の乱」【前編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑱

一族の暴走を抑えきれず和田義盛、腹をくくる

 

 和田義盛は子息らの暴走を抑え切れずにいる。北条義時からの挑発が重なるに及び、その傾向はさらに強まった。

 

 武装蜂起に至る義盛とその周囲に関して、『吾妻鏡』からは以下の3つの記事を拾うことができる。

 

1、四月十五日条 実朝から寵愛された和田朝盛の出家。

2、四月二十四日条 義盛が長年帰依していた尊道房の追放。

3、四月二十七日条 実朝の使者の二度に及ぶ来訪。

 

 和田朝盛は義盛の孫。義盛から軍勢の棟梁になるべき者として大いに期待されていたが、和田一族と将軍実朝との板挟みとなり、武力衝突となった場合の去就(きょしゅう)について悩んだあげく、どちらにも加担しない選択をしたものと考えられる。

 

 次の尊道房(そんどうぼう)というのは伊勢国出身の僧侶で、和田家では追放と言っているが、戦勝祈願のため、伊勢大神宮に遣わされたとする噂が、まことしやかに流されていた。

 

 3つ目の実朝の使者というのは、義盛の真意を確認するために遣わされたもので、第一の使者である宮内公氏(くないきみうじ)は義盛から、「謀反の企てなど全くない」との返事を得ながら、列座の武士たちが兵具を整える様子を目撃。それを聞いた義時は鎌倉滞在中の御家人たちを集め、義盛に逆心があるのは間違いないとしながら、まだ甲冑を着するには及ばないと、楽観的な見通しを披歴(ひれき)していた。

 

 実朝の心は休まらず、同日夕方、改めて刑部丞忠孝という近臣を、義盛の鎌倉邸へと遣わす。度重なる実朝の配慮に対し、義盛は次のように忌憚のない言葉を返した。

 

「主君には全く恨みを抱いておりません」

 

「何度も諫めたのですが、全く耳を貸してもらえず、あきらめて自分も同意しました」

 

 つまり、実朝に対する恨みは全くなく、憎いのは君側の奸だけ。息子らを止めることができない以上、自分も同意して参加するしかない、というのである。

 

 ただし、藤原定家の『明月記』には、義盛は御所で自分の粛清に関する密議が行われたとの情報を得て、謀反を決めたとあり、義時個人に対する憎悪を原動力としながら、蜂起せざるをえない状況に追い込まれていたことがうかがえる。

 

監修・文/島崎晋

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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