×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

圧倒的に不利な川越城の戦いを制した北条氏康の「奇襲」

今月の歴史人 Part.5


「奇襲」の「奇」は「奇をてらう」 などと使われる通り、常識では考えられないような、思いがけない、という意味を持つ。人の考えもつかない戦が奇襲であり、想定外の時間、 想定外の場所、想定外の兵器や設備、 想定外の手段をもって敵の虚をつくのが「奇襲」だ。今回はそんな「奇襲」の中でも、戦国史のなかで最も模範的といわれる奇襲」を紹介したい。


 

意図的な退却を繰り返し 敵方の油断や慢心を狙う

 

北条氏康

北条氏康
「相模の獅子」と呼ばれた猛将で、大将にもかかわらず軍の先頭に立って戦ったとされる。戦国時代屈指の名将であり、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信からの攻撃を跳ね返している。(「太平記英勇伝 北条左京大夫氏康」/東京都立中央図書館蔵)

 

「奇襲」の「奇」は「奇をてらう」などと使われる通り、常識では考えられないような、思いがけない、という意味を持つ。つまり「奇襲」は文字どおり敵の意表をつく攻撃のことだ。例えば織田信長は息子の織田信忠(のぶただ) に「大将は人の考えない事を考えろ」と教えたが、人の考えもつかない戦が奇襲であり、想定外の時間、想定外の場所、想定外の兵器や設備、想定外の手段をもって敵の虚をつくのが「奇襲」だ。孫子も「人の及ばざるに乗じ、虞らざるの道に由り、その戒めざるところを攻むる」と説く。

 

 この「奇襲」の代表例としては、戦国時代に相模(さがみ)の北条氏康(ほうじょううじやす)が仕掛けた「川越城の戦い」でのものが適当だろう。「河越夜戦」という別称でも知られるこの戦いは、天文15年(1546)4月20日に行われた。

 

 当時、関東では古河公方(こがくぼう)の足利晴氏(あしかがはるうじ)、関東管領(かんとうかんれい)の山内上杉憲政(のりまさ)、それに扇谷上杉朝定(おうぎがやつうえすぎともさだ)ら関東の旧勢力が連合して北条氏康に対抗していたのだが、前年9月にこの連合軍が北条方の武蔵国川越城を包囲する。川越城は平山城ながら西の入間川、北の赤間川、東と南の低湿地に囲まれており守りに適していたため、半年間籠城戦を耐えたが、兵数8万を呼号する連合軍に対し城兵は3000、さらに氏康が率いる兵も8000に過ぎず、連合軍を破って城を解放するには力不足である事は明白だった。

 

「川越夜戦跡」の石碑が残る東明寺 700年以上の歴史を持ち、かつて広大な寺領を有していた東明寺 (埼玉県川越市)には、「川越夜戦跡」の石碑が立つ。敷地内には境内で発見された、合戦で破れた将兵の遺骨を納めた富士塚も残る。

 

 以下は、1次史料では確認できず『関八州古戦録(かんはっしゅうこせんろく)』などの軍記物による合戦の経緯となる。

 

 大軍を相手にする北条氏康は「奇襲に賭けるしかない」と判断。府中(現在の東京都府中市)に陣を置くと、北の柏原(川越城の西北西)に布陣している上杉勢に対し東隣りの三ツ木原から攻撃をしかけてはわざと負けて府中に退却するという行動を4回 にわたって繰り返した。これによって連合軍側は勝ちに奢(おご)り「北条軍、弱し」と油断する。そこへさらに北条氏康は大将の足利晴氏に対し「川越城はこの様に包囲されて兵糧不足のため兵たちが飢えに苦しんでおります。もはやどうしようもございませんので、北条綱成(つななり)以下の命さえお助けいただければ、城と領地は公方様へ差し上げます」と申し入れた。これで連合軍は「氏康に戦意は無し」と安心してしまう。連合軍としても6ヶ月以上に及ぶ長滞陣による疲労で倦みきっていた所でもあり、その陣は完全に緊張を失ってしまった。

 

寝静まった闇夜に 3隊と城方が急襲

 

川越城

川越城絵図
川越城は太田道真・道灌親子が築いたといわれ、上杉氏の居城となった。江戸時代は江戸の北の守りとして、代々幕府の幕府の重臣が城主となっていた。(「日本古城絵図 武州川越図」国立国会図書館蔵)

 

 連合軍の状況を探知した氏康は、4月20日夜に行動を開始する。軍を4つに分けると、1隊のみを残して3隊を率いた。雲で月明かりも弱い暗夜の中、軽装の兵たちには松明(たいまつ)もつけず、「首は打ち捨て、分散して戦い常に移動せよ」と目印・合い言葉を決めて子の刻(午前0時頃)に砂久保の上杉憲政陣に攻めかからせた。

 

 砂久保は川越城の南、三ツ木原の東に当たる。戦勝気分に浮かれすっかり緩みきって寝込んでいた憲政勢は、今までとは違う方角からの突然の攻撃に度肝を抜かれ、混乱の極みに陥ったが、北条氏康は3隊を何度も突撃させ敵の背後に抜けるとまた取って返し、他の部隊と合流してはふたたび 突撃させることを繰り返し、前後の闇の中から攻め寄せる北条軍に怯えた憲政勢では同士討ちも起こって壊滅。東明寺(川越城の西)付近の上杉朝定勢も大敗し、朝定本人も討ち死にするほどの惨状を呈する。

 

 一方、川越城内の綱成もこの状況を確認した。実は、氏康が事前に綱成の弟・福島勝広をただひとり連合軍の包囲網を突破させて城に駆け入らせ、作戦を伝えていたのだ。満を持していた綱成は全軍を率いて攻めかかり、晴氏らを追い散らした。

 

 こうして氏康は一夜で連合軍2800名以上を討ち取って完膚なきまでに破り(「行伝寺過去帳」)、関東公方・関東管領の権威はまったく地に墜ちてしまう。意外な方向・意外な時間に無警戒の敵を襲う。氏康は完璧な「奇襲」によって川越城を解放し、関東の覇権を確立したのだ。

 

 

監修・文/橋場日月

『歴史人』5月号「決定!最強の城ランキング」より)

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

歴史人 2022年6月号

沖縄戦とソ連侵攻の真実

沖縄復帰50年記念企画「沖縄戦とソ連侵攻の真実」。激戦の沖縄で何が起こったのか? そして突然のソ連侵攻の真相に迫る! 太平洋戦争最大の民間犠牲15万人・沖縄戦の真実、硫黄島の戦い、戦艦大和沈没の真実、電撃のソ連の対日宣戦布告、ソ連の満州・樺太侵攻などの詳細を語り継ぐべく、徹底解説していく。