×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

坂上田村麻呂が鬼退治の物語に頻繁に登場する理由とは?

鬼滅の戦史55


大嶽丸(おおたけまる)や悪路王(あくろおう)、高丸(たかまる)、魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)など、数え切れないほどの鬼退治で名を馳せた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)。死後は、平安京の守り神にまで祭り上げられた御仁であった。しかし、その系譜をたどれば、実は意外な人物へとたどり着く。その人物とは、果たして?


征夷大将軍として蝦夷を征伐し平安京の守護神として信仰を集める

坂上田村麻呂 菊池容斎筆『前賢故実』より 国立国会図書館蔵

 

 鬼退治の権化ともいうべき御仁として、本来なら真っ先にその名をあげるべきなのが、坂上田村麻呂である。

 

 鈴鹿山の大嶽丸や、奥州達谷窟(たっこくのいわや)の悪路王などを討伐した人物として、その名が知られている。大嶽丸征伐物語では、鈴鹿山の盗賊として名高かった鈴鹿御前と恋仲となって結ばれ、子(小りん)まで成すという艶聞(えんぶん)まで伝わっている。それ以外にも、近江国の高丸、安曇野の魏石鬼八面大王と妻の紅葉鬼神、熊野の金平鹿(こんへいか)、奥州の藤原千方(ふじわらのちかた)の四鬼(よんき)など、名だたる鬼どもをことごとく討伐するという活躍ぶりが各地で語り継がれている。

 

 もちろん、いずれも史実とは言い難いものではあるものの、田村麻呂の足跡を伝えるものあるいは、武勇にあやかりたいとの願いを込めて伝えられたものであることはいうまでもない。後には、毘沙門の化身、あるいは北天の化現とも称えられたばかりか、平安京の守護神として睨みを効かせるように、立ったまま棺に納められて埋葬されたとか。真偽はともあれ、武神あるいは軍神として信仰の対象となるほど、武名高き人物だったのだ。

 

平城天皇の愛妾が巻き起こした薬子の変も鎮圧

 

 では、史実としての坂上田村麻呂とは、いったいどのような人物だったのだろうか? よく知られるところとしては、桓武天皇によって2度も征夷大将軍に任じられて、蝦夷(えみし)征伐に赴いたというところだろう。

 

 1度目は延暦16797)年、田村麻呂40歳の頃で、3年後の延暦20801)年に出陣。翌延暦21802)年に蝦夷の族長アテルイと副将モレが、兵500余人とともに降伏してきたとの記録があることから、この戦いで田村麻呂が大きな成果を上げたことは間違いない。それでも、2年後の延暦23804)年に再び征夷大将軍に任じられている(出陣はしなかった)ことから察すれば、完全に服させることはできなかったのだろう。

 

 その後、参議を経て中納言、侍従、大納言と順調に出世。桓武天皇に嫁がせた娘春子が葛井親王(ふじいしんのう)を産んだことで、外祖父として一目置かれる存在にまでのし上がった。

 

 晩年には、平城天皇の愛妾(あいしょう)が巻き起こした薬子の変(くすこのへん)を鎮圧。自ら出陣して、これを征したとも。その翌年の弘仁2(811)年に病を得て、ついに54歳の生涯を閉じた。嵯峨天皇がその死を悼んで一日喪に服したというから、よほど信頼厚き人物だったのだろう。前述したように、田村麻呂は立ったまま埋葬されたが、国が非常時となれば、その墓が「鼓を打って雷電が鳴る」とまで言われたものであった。

 

坂上田村麻呂『絵入日本歴史』/交盛館 国立国会図書館蔵

 

先祖は百済出身の渡来系氏族・東漢氏

 

 この人物を語る上で、もう一つ欠かせないのが、その系譜である。それをたどれば、何と後漢霊帝の後裔(こうえい)と称する阿知使主(あちのおみ)に行き着く。

 

 阿知使主といえば、応神天皇20年、子の都加使主(つかのおみ)とともに、17県の輩を率いて渡来してきたことが『日本書紀』に記されている。出身地は百済であるが、その遥か以前の中国漢末に、戦乱を避けて帯方郡へと逃げ延びてきた人々がいたのだろう。その後裔と思われるのが、この一族であった。多くが、大和国高市郡檜前村(檜隈/ひのくま とも。奈良県高市郡明日香村)に土地を賜って、移り住んだようである。

 

 優れた土木技術や製鉄技術を有し、経済力や軍事力にも秀でていたため、当時の政権にとっても、侮れない勢力であった。それが東漢氏で、6世紀には蘇我氏や宮廷の門衛など、さらに強大な軍事氏族として成長したようだ。

 

『続日本紀』宝亀3(772)年417日の条によれば、「他姓のものは十にして一二なり」ということだったとか。つまり、檜前村の住民の8〜9割が渡来人だったのだ。不思議なのは、檜前村には、天武天皇と持統天皇の陵墓とされる檜隈大内陵(前方後円墳)や高松塚古墳(二段円墳)、文武天皇の陵墓とも推測される中尾山古墳(八角墳)など、天皇やそれに連なる人々が多く埋葬されていることである。これをどう捉えれば良いのかについては、若干の疑問が残る。

 

 ちなみに、東漢氏自体は、馬子に命じられたとはいえ、東漢駒が崇峻天皇を暗殺したことで宗家は没落。その分家に当たる坂上氏が、系統を受け継いでいったようだ。その坂上家の初代志拏から数えて、9代目に当たるのが田村麻呂なのだ。

 

 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱の平定や道鏡の排斥に尽力した父・苅田麻呂(かりたまろ)が、忌寸(いみき)から大忌寸、大宿禰(おおすくね)へと、より上位の姓を賜るようになったことにも注目したい。この時の坂上氏の躍進に、桓武天皇が力添えしたのではないかと思えるのだ。

 

 また、桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)が、百済系渡来氏族和氏(百済武寧王/ぶねいおう の子孫か)の出自であったことも大きく影響していそうだ。自身の出自のこともあって、ことさらに渡来系氏族を優遇したのだろう。天皇の計らいによって、和氏はいうまでもなく、坂上氏や秦氏なども厚遇されたと考えられる。苅田麻呂が、卑姓であった忌寸から、より高貴な宿禰へとのし上がることができたのも、こうした背景があってのことだったのだろう。

KEYWORDS:

過去記事

藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

最新号案内

歴史人 2022年12月号

承久の乱のすべてがわかる! 歴史人編集部

いよいよ終盤に突入するNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。  12月号では「承久の乱」を徹底解説。なぜ後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を討つことを決めたのか? また、北条義時はどう動いたのか? そして、この戦いの意義とはなんだったのか? その真実に迫る。また日本の2分したこの戦いの後、100年以上続く鎌倉幕府と北条家はその後どうなったのか? 13人の御家人たちの血脈はどうなったのか?「その後」を追う。  そのほか、北条氏と盟友だった三浦氏が戦った「宝治合戦」、北条家の内紛「二月騒動」、鎌倉最大の危機「蒙古襲来」、そして鎌倉幕府と北条家の終焉までを徹底解説する!