×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
通販

名刀「鬼切安綱(おにきりやすつな)」を手にした、頼光四天王の筆頭とされる渡辺綱の剛勇ぶりは本当か?

鬼滅の戦史㊿


 頼光四天王の筆頭として、華々しく鬼退治ぶりが語り継がれた渡辺綱(わたなべのつな )。名刀を手に、華々しく活躍する姿に、つい、猛々しい豪傑を想像してしまいそうである。しかし、史実として記録された綱の経歴は、武人というより、名門氏族の総帥で、嵯峨(さが)天皇の血筋を受け継ぐ高貴なものであった。それにもかかわらず、鬼退治という武人としての活躍が強調されたのは、いったいなぜなのだろうか?


渡辺党の祖は、名刀を振りかざして茨木童子の手をバッサリ!

大江山の酒呑童子退治の後日談の中に、源氏の名剣・鬼切の由来を述べた『綱絵巻』/東京国立博物館蔵ColBase

 鬼の中の鬼と恐れられた酒呑童子(しゅてんどうじ)を、自ら退治したとしてその名を馳せたのは、源頼光だった。今回はその臣下で、頼光四天王の筆頭と称えられた渡辺綱を取り上げることにしたい。

 

 彼自身が主役となって活躍するのが、茨木童子(いばらきどうじ)の退治物語である。茨木童子は酒呑童子の家来で、親分の仇を討たんと、一条戻橋(いちじょうもどりばし)で美女に変身。綱の気を緩ませた末、その髪の毛を掴んで愛宕山に連れ去ろうとしたのである。しかし、綱が手にした名刀「髭切(ひげきり)」を振り下ろして、鬼の腕を切り落としてしまった。

 

 後に失った腕を綱の叔母に化けて取り返しにきた…との話まで伝わっている。もちろん、それは史実とは言い難い、伝説上のお話であることはいうまでもない。では、史実としての渡辺綱とは、いったいどのような人物だったのだろうか?

 

まずは経歴から見てみることにしよう。

 

武蔵国国司として関東に下向、きらびやかな名門氏族の出自

 

 父の名は源宛。『今昔物語集』にも、陸奥守・平良文(たいらのよしふみ)との荒川における一騎打ちが記されるほどの名高い武人であった。その宛の父・仕が、武蔵国国司として関東に下向して箕田村(埼玉県鴻巣市)に移り住んだところから、箕田源氏の祖とされる。その仕の祖父・融が、何と52代嵯峨天皇の12皇子だったというから驚く。太政大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ)の薨去(こうきょ)に伴って左大臣に任ぜられたという、事実上の最高位にまで上り詰めた人物であった。

 

 さらにユニークなのが、この御仁、実は紫式部が記した『源氏物語』の主人公・光源氏の実在のモデルであったと見られているのだ。帝の皇子でありながらも、母の身分が低かったことから、源氏姓を与えられて臣籍降下を命じられた点。これに加え、容姿にも恵まれ、一線を退いてから嵯峨に引退した点などなど、物語に記された光源氏との共通点が多かったからである。

 

 ともあれ、綱はこの融を祖とする嵯峨源氏の5代目にあたるわけで、いうまでもなく名門氏族の一員であった。母方の里である摂津国西成郡渡辺に移り住んだところから、渡辺姓を名乗り、渡辺綱と呼ばれるようになったのだ。

 

 後に綱は、摂津国多田の地で勢威を張る源頼光に仕えることになるが、頼光とも強い姻戚関係で結ばれている。頼光の父・満仲といえば、摂津国ばかりか、越後国や伊予国、陸奥国など数多くの受領を歴任して莫大な財を築いたことでも知られる人物であるが、その娘婿の敦の養子となったのが綱であった。つまり、綱から見れば、頼光は義叔父にあたる訳で、頼光から厚く用いられた理由もよく理解できるのだ。

 

 主君であった頼光が寛仁2(1020)年に正四位下・摂津守に叙された際、綱もまた正五位下・丹後守に叙されたと記録されている。ただし、彼が本当に武勇に秀でていたのかどうか、この辺り、史実としては定かではない。それでも、その子孫にあたる渡辺党が、内裏警護を司る滝口武者として名を馳せた一団であったというから、その祖としての綱の武勇がことさら大きく語られたのだろう。

 

渡辺綱が羅城門に住みついていた大江山の鬼の残党の右腕を切り落とす。『綱絵巻』/東京国立博物館蔵ColBase

別名「髭切」の由来から、高らかに歌い上げられる綱の剛勇ぶり

 

 また、この綱を語る上で欠かせないのが、名刀「鬼切安綱」の存在である。前述した茨木童子の腕を切り落としたという説話が史実であったかどうかはともあれ、この名刀(2尺7寸の太刀)が綱の手に渡ったことは確からしい。もともと綱の義叔父にあたる満仲が、筑前国から刀鍛冶(唐国の鉄細工)を呼び寄せて打たせた双剣のひと振りで、満仲から頼光を経て、綱に与えられたという。

 

 これが、頼光の大甥(甥の子)にあたる八幡太郎こと源義家(みなもとのよしいえ/河内源氏)に渡り、その弟・新羅三郎こと源義光(みなもとのよしみつ)へ伝わっている。その後、どのような経緯をたどったのか不明ながらも、南北朝の騒乱の最中には、河内源氏義国流新田氏本宗家の8代目棟梁・新田義貞のもとへ。さらに、出羽豪族最上家へと伝わった。その最上家は、後継者をめぐる殺害事件(最上騒動)が咎められて近江国蒲生郡へ改易。「鬼切安綱」もまた、近江へもたらされたのである。その後も様々な変遷を経て、最後は京都の北野天満宮に奉納され、今日に至っている。これが、別名「髭切」とも呼ばれる名刀である。

 

 同時に鍛えられたもうひと振りの名は、「膝丸(ひざまる)」。罪人の首を切った際に膝まで切り落としたというところから、こう呼ばれるようになったのだとか。これが頼光の土蜘蛛退治の際に使用されたものとされる。この逸話から、別名「蜘蛛切(くもきり)」とも呼ばれた。こちらは、頼基、頼義、義家、為義を経て、一時熊野別当の手に渡ったものの、義経に贈られたという。その際、名前も「髭切」から「吠丸(ほえまる)」「薄丸」と次々に変えられている。

 

 義経が頼朝に睨まれるや、義経はこれを箱根権現に奉納。さらに曽我兄弟の敵討ちで知られる曽我五郎の手を経て頼朝に渡り、嵯峨の大覚寺あるいは箱根神社などへ。今は、「膝丸」あるいは「薄丸」と伝えられる名刀が複数存在するというのが実情である。

 

 ともあれ、天下に名を轟かせた名刀が、綱の手元にあったことは確か。これが武家の誉れとして、綱の名を高らしめることに役立ったに違いない。渡辺党の祖としての威厳を保つため、さらには名刀の働きも加わって、綱の剛勇ぶりが一層強く語り継がれたと考えられるのである。

 

 

 

KEYWORDS:

過去記事

藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

最新号案内

歴史人 2021年12月号

武田三代 栄華と滅亡の真相

戦国最強騎馬軍団を率いた甲斐源氏・名門武田家はなぜ滅亡したのか? 甲斐統一から甲州征伐まで、その全軌跡を追う。 甲斐統一を成し遂げた武田信虎、戦国の世にその名を轟かせた武田信玄、父の名声と戦い続けた武田勝頼。甲斐武田家に隆盛をもたらした三代に改めて迫る。信玄の天才ぶり、君主を支えた家臣団の実力、武田家にかかわった女性たち…など、武田家にまつわるすべてを徹底解説する。