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源頼光が数々の鬼退治で名を馳せた、本当の理由とは?

鬼滅の戦史㊽


酒呑童子(しゅてんどうじ)や土蜘蛛(つちぐも)退治などで華々しい活躍ぶりを見せた豪傑・源頼光(みなもとのよりみつ)。自ら名刀を振りかざして鬼を退治するその勇姿に、誰もが拍手喝采を送った。しかし、史実としての頼光像に目を向けてみると、実は意外な姿が見えてくる。その実像とは、いったいどのようなものだったのだろうか?


鬼退治での華々しい活躍ぶりは事実か?

「源頼光射強弓」春川甫政筆『金刀比羅宮絵馬鑑』/国立国会図書館蔵

 これまで長らく鬼や妖怪に的を絞って書き記してきたが、今回からは、それらを退治する側の武将たちにも目を向けるようにしたい。最初に取り上げるべきは、もちろん、数々の鬼退治で功績を残したとされる源頼光である。

 

 言わずと知れた、頼光四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)の主君で、酒呑童子や土蜘蛛といった鬼退治物語にも登場する御仁だ。悪鬼をも恐れぬ勇壮な武人として、華々しく語り継がれている。酒呑童子に対峙した際には、自ら名刀「童子切安綱(どうじぎりやすつな)」を手にして戦い、その首を斬るといった活躍ぶりで、斬られた首が頼光の兜にかぶりついたとのおぞましい話まで語り継がれている。

 

 また、土蜘蛛退治でも名刀「膝丸(ひざまる)」で切りつけるなど、いずれも愛刀を手にして活躍している点が特徴的であった。しかし、うがった見方をすれば、それは武勇に優れた武人としての華々しさを際立たせるための、一種の演出とも考えられるのだ。ともあれ、伝説として伝えられる頼光像は、勇壮な武人そのものであった。

 

 ところが、史実としての頼光に目を向けてみると、実のところ、それとは異なる意外な一面が浮き上がってくる。まずは、その経歴から振り返ってみることにしよう。

 

世渡り上手で有能な官吏

 

 頼光が生まれたのは、天暦2(948)年のことであった。父は、鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)や摂津守などの要職に任じられた源満仲(みなもとのみつなか)で、その父・経基(つねもと)といえば、清和天皇の孫でありながらも、源姓を賜与されて臣籍降下を命じられた御仁。清和源氏(経基流)の祖として名高い人物であった。頼光は、経基から数えて3代目にあたる、清和源氏の嫡流なのだ。

 

 その名門氏族の嫡男(ちゃくなん)として生を享けた頼光。彼が臣従したのが、藤原摂関家の頂点に君臨する道長であった。父・満仲が摂津国や陸奥国などの受領を歴任したことから得た莫大な財力を元に、道長に多大な進物を贈り続けていたことが功を奏したという。道長に側近として仕えて以降、自らも受領を歴任。正四位下に昇進して昇殿を許される殿上人の地位を得た。そればかりか、「朝家の守護」とまで呼ばれるほどの信任ぶりだったという。

 

 これら一連の動向を見てもわかるように、権力者に阿り、財力にものを言わせて官職を得るといった、世渡り上手で目端のきく人物だったことがわかる。文人としても有能で、拾遺和歌集などの勅撰和歌集に3種の和歌が収録されているという多彩さである。

 

その反面、豪傑とはとても言い難い人物で、武人としての華々しい活躍ぶりなどとは無縁だったのだ。官吏としては有能だったのかもしれないが、武人としては今ひとつ…、それが頼光の実像なのである。

 

頼光四天王大江山鬼神退治之図/国立国会図書館蔵

臣下の活躍あっての武名だった?

 

 では、なぜ、武人としてのめぼしい活躍が記録されることのなかった人物が、鬼や妖怪退治における中心人物として、その活躍ぶりが華々しく語られ続けてきたのだろうか? その鍵を握るのが、渡辺綱を筆頭とする、頼光四天王と呼ばれた名将たちの存在だった。

 

 前述した四天王のうち、坂田金時の実在は定かではないものの、他の三人はいずれも、歴とした頼光の臣下である。剛勇で知られた渡辺綱や、三浦氏の祖とされる平忠通の父・碓井貞光(平貞光)、坂上田村麻呂の子孫とされる卜部季武(坂上季猛)らが、史実として、地方に跋扈する夷族討伐を成し遂げたことに起因すると考えられるのだ。

 

 この臣下たちの活躍の舞台の一つが、摂津大江山(京都府の丹後半島)への出兵であった。この夷族なるものが、具体的にどのようなものだったのかは定かではないが、『今昔物語集』(巻二九の二三)に、大江山の盗賊のお話が登場するところを見れば、盗賊団のことを言い表しているとも考えられそうだ。ただ、気になるのが、頼光の時代よりも数百年も前に起きた先住民討伐の逸話であることだ。

 

 もともとこの辺りは、陸耳御笠(くがのみみかさ) という名の先住民が暮らしていたところである。渡来系海人族(越人系か)だったと思われるが、その一大勢力を、朝廷の主体となる東夷系の天孫族(出自は中国の山西省あたりか)が征服したとの図式も考えられるのだ。その残存勢力が、もし数百年後の頼光の時代にも、まだ勢力が残存し、それが夷族とみなされていたとすれば、頼光の派遣は、俄然重要度を増す。反体制勢力の討伐こそ、朝廷にとって最優先課題だからだ。「朝家の守護」を自認する以上、これを討伐することは、必要不可欠とみるべきだろう。それを成し遂げたのが、渡辺綱ら有能な臣下だったのだ。彼らの活躍が、結果として主君である頼光の名を高らしめたとも考えられるのだ。

 

 ただし、朝廷としては、その征伐を表立って表明することを良しとしない何らかの理由があったのだろう。それが、鬼退治物語へと転嫁された理由なのかもしれない。『日本書紀』などに記された土蜘蛛退治が、まさにそうであったことを鑑みれば、あながちありえない話ではないのだ。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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