和泉式部の夫・藤原保昌が源頼光とともに大江山の鬼退治で戦ったのは本当なのか?
鬼滅の戦史㊾
酒呑童子(しゅてんどうじ)退治において、力を合わせて見事征伐を成し遂げたとされる藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と源頼光(みなもとのよりみつ)。しかし、その実像に迫っていくと、とても同じ陣営に属していたとは思えない史実が浮かび上がる。二人が清少納言家も交えて、血で血を洗うような凄まじい抗争を続けていたからだ。その真相は、いったいどのようなものなのだろうか?
保昌と頼光がともに出陣したというのは、本当なのだろうか?
-300x151.jpg)
文武に優れていたという藤原保昌『藤原保昌月下弄笛図』月岡芳年筆東京国立博物館蔵/ColBase
藤原保昌とは、あまり聞きなれない名前である。それでも、源頼光とその四天王(渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光)とともに、酒呑童子を退治した御仁と聞けば、「そういえば、そんな御仁がいたな」と思い出す方も少なくないに違いない。一般的には、頼光とその四天王に加えて、保昌が客将のごとく参加したことになっている。それでも、あくまでも退治する側の主役は源頼光で、あとは付け足しのように語られることが多い。何とも、影の薄い御仁である。
しかし、平安時代を代表する歌人であり、かつ『和泉式部日記』の作者として知られる和泉式部の夫となれば、話は別。本人には申し訳ないが、俄然、興味が湧いてくるのではないだろうか? 保昌自身も、貴族でありながら武勇にも優れた人物で、それなりに名が知れた人物であったが、今となっては、「和泉式部の旦那」という方がわかりやすい。
ともあれ、大江山へと送り込まれたのはこの6人で、見事な連携プレーの末、見事、酒呑童子を退治した…というのが、大方の認識である。
しかし、その逸話は事実なのだろうか? 酒呑童子の実在も微妙なところではあるが、源頼光が勅命を受けて、賊退治のために丹後へと送り込まれたことは確かなようだ。これは、京都府宮津市にある成相寺に、頼光が書いたとされる夷賊追討(いぞくとうばつ)の祈願文書が残されているからである。そこには日付として、寛仁元(1018)年3月11日と記されている。1018年といえば、頼光は摂津守、保昌は大和守に任じられていた期間だ。摂津守と大和守が一武将として追討軍として出陣するというのも違和感があるが、それにも増して、当時の二人が、大和国の利権を巡って、壮絶な抗争を繰り返していた可能性が高いゆえ、なおさら二人が協力しあって…という部分に、首をかしげてしまうのだ。
清少納言の兄とされる清原致信が保昌の郎党を殺害したのが発端!?
事件が起きたのは、大江山の夷賊追討の前年のことである。発端は、大和の在地領主・当麻為頼を、清少納言の兄とされる清原致信(きよはらのむねのぶ)が殺害したことである。為頼とは、頼光の弟・頼親(よりちか)の郎党。犯人とされる致信の方は、保昌の郎党であった。
つまり、保昌の家来が、頼光の弟・頼親の家来を殺したのだ。もちろん、頼親が激怒したことはいうまでもない。仰々しくも、7〜8騎もの騎馬と10人余りの歩兵を六角富小路にあった致信の館に送り込んで、致信を血祭りにあげて殺してしまったのである。
この致信への報復を命じたのは、一説(『古事談』による)によれば、頼親ではなく、その兄・頼光であったとか。渡辺綱を始めとする頼光四天王が実行部隊だったという。いずれにしても、源家の仕業であることに変わりはなかった。
この報復が1017年3月11日のことだったというのが気になるのだ。それは、大江山での夷賊追討のちょうど1年前のことだからだ。
互いに臣下を殺しあった藤原保昌と源頼光
これが事実なら、前年度に部下を殺しあった人間同士が、1年後に、同じ追討軍の中にいることになる。それは本当にあり得る話なのだろうか? 常識的に考えれば、ほぼ、あり得ない話である。仮に頼光とその四天王が大江山に向かったのが事実であったとしても、保昌までもがそれに加わっていたとは考えにくいのだ。
ちなみに、話が少々外れるが、この襲撃に関して、もう一つ興味深い逸話が記録されている。頼親あるいは頼光の命によって、多くの兵たちが致信の館へとなだれ込んできた時、そこに、なぜかは不明ながらも、致信の妹とされる清少納言も在宅していたことがわかっている。しかも、彼女はこの時、法師姿であった。そのため、踏み込んできた兵士たちにとっては、清少納言が男か女か、見かけだけではわからなかったようだ。
そこで彼女が咄嗟にとった行動が、実に衝撃的。何と、臆することなく法衣をたくし上げて、開(つび)、つまり女陰を見せたというのだ。女と分かれば殺されることもないだろうと考えたのだろうが、これを目の当たりにした兵士たちが、あっけにとられた様相が思い浮かぶようである。
その後、彼女がどのような状況を経て生かされることになったのか定かではないが、命拾いしたことだけは確かである。兄だけが、無残にも殺されてしまったのだ。
こうして見てみると、保昌と頼光の歪(いびつ)な関係ばかりか、清少納言と和泉式部の二人の女流作家までもが、夫を介して因縁めいたもので繋がっていたことがわかるのだ。
藤原道長・頼通の家司をも務めた保昌の、和泉式部への求愛の証とは?
なお、保昌の名誉のためにも、当人の武勇について言及しておくべきだろう。もともと、藤原南家巨勢麻呂流の流れを汲む貴族で、大和守ばかりか、摂津守や丹後守などを歴任した御仁。
藤原道長・頼通の家司をも務めたことで、それなりに権勢を得ていた人物である。盗賊の袴垂保輔(はかまだれやすすけ)が笛を吹きながら悠然と大路を歩く保昌を襲おうとしたものの、隙がなく襲いかかることができなかったというほど、武芸にも秀でた人物であった。
源頼信、平維衡(たいらのこれひら)、平致頼(たいらのむねより)らとともに、道長四天王と称されたほどだから、武勇に秀でた人物だったことは事実だろう。和泉式部に一目惚れした保昌に対して、式部から天皇の御座所である紫宸殿(ししんでん)の南殿の梅の枝を所望された時も、北面の武士に矢を射かけられながらも、見事、ひと枝折り取って持ち帰ったとの逸話も伝えられている。祇園祭に登場する保昌山は、その時の様相をモチーフにしたものだといわれる。
ちなみに、二人が結婚したのは、長和2(1013)年。保昌55歳、式部35歳頃のことであった。式部自身は、前夫・橘道貞(たちばなのみちさだ)との間に娘(小式部内侍)を、召人として仕えた敦道親王(あつみちしんのう)との間に息子(永覚)をもうけたが、保昌との間には子は産まれなかったようである。