日本中に伝承地が残る「金太郎」こと坂田金時とは、何者だったのだろうか?
鬼滅の戦史51
頼光四天王の中でも、一番の力持ちとしてその名を馳せた坂田金時は、生誕地としての伝承が宮城県や長野県、高知県など各地に点在する。亡くなった場所も、岡山県ばかりか富山県にまで散在しており、一体どの地域でその生涯を送ったのかが、まったく分かっていない。さらには、その伝承のモデルが、足柄山に住む山姥の子だったとも言われている。その真相は、どのようなものなのだろうか?
静岡と神奈川にまたがる金時山に出没! 人を喰らうと恐れられた山姥の子?
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ふき出しに描かれているのは金時が見ている夢、森で熊と闘う幼い金時。
『幼時を夢見る坂田金時』鳥居清長筆東京国立博物館蔵/ColBase
坂田金時とは、いうまでもなく昔話に登場する金太郎のことである。足柄山で生まれ育った元気な子供で、熊と相撲を取っても負けない、強くて逞しい男子に成長したというから、今日の親から見ても、申し分のないお話である。ともあれ、ここではその実像について考えてみることにしたい。
母の名は八重桐。彫物師十兵衛の娘で、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれたものの、懐妊した直後に蔵人が死去。八重桐は故郷の足柄山に戻って金太郎を生み、母の手一つで立派に育てたというのが一般的に流布する話である。
舞台となった足柄山を、静岡県と神奈川県にまたがる金時山(標高1212m)に連なる山々と見なすのも頷ける。静岡県側の駿東郡小山町には、生家跡に建てられたという金時神社が祀られているのを始めとして、産湯として使った産湯の七滝、金太郎を産み落とした子産田など、金太郎ゆかりの地が目白押しである。
そのお隣の神奈川県側の南足柄市にも、当然のことながら、金時ゆかりの地が多い。ここでは八重桐は地蔵堂の四万長者の娘、父の姓は酒田と少々異なるが、金太郎の生家跡の長者屋敷や、金太郎の遊び石である「かぶと石」「たいこ石」、産湯として使った夕日の滝、八重桐の腰掛け石などが散在するのは神奈川県側と同じ。ともに金太郎の生誕地であることを強調するのである。
と、まあこの辺りまでは、おそらく誰もが知る金時伝説の範疇だろう。少々意外なのが、通りがかった男を喰い殺すとして恐れられた山姥(やまんば)の子であったとの伝承だ。
その伝承では、父の仇を討つことができなかった坂田蔵人時行が自害したことに起因。その魂が、遊女であった八重桐の胎内に入って生まれたのが金太郎だというのだ。超人的な怪力であったことから怪童丸と呼ばれたというが、足柄峠で出くわした源頼光に見出されて、後に四天王の一人として活躍したとしている。
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坂田金時とその母という趣向の浄瑠璃を描いた『山姥』。河鍋暁斎筆/東京国立博物館蔵ColBase
渡来系氏族息長氏の系譜に連なる人物か?
さらに意外なのが、伝承地の多さだ。金太郎ゆかりの地と言い伝えられるところが、静岡県や神奈川県だけでなく、全国各地にひしめいているのだ。
その一つが、滋賀県長浜市西黒田地区。ここでは金太郎の生年は天暦9(955)年で、生誕の地は近江国坂田郡布施郷だという。この辺りは、新羅から渡来してきた天日槍の後裔とされる、神功皇后の出身母体・息長氏の本拠地で、早くから製鉄業が栄えたところである。金太郎も例に漏れず、鍛冶屋で働いていたとしている。
ちなみに、金太郎のシンボルともいうべき菱形の腹掛けは、火の粉が降りかかるのを避けるためのもので、そこに大きく描かれた「金」の字も、金太郎の金であるのと同時に、鍛冶の象徴だったとか。ならば、金太郎が担いだのがマサカリであったというのも、何やら意味ありげに思えてきそうだ。
源頼光との出会いの地も、ここでは同じ地名とはいえ、滋賀県の足柄。かの石田三成生誕の地にも近い足柄神社にその名をとどめている。頼光の家来となった後に退治した鬼というのも、大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)ではなく、伊吹山(米原市)の山賊だったとか。酒呑童子の生誕の地が伊吹山であったとの伝承まであるから、驚かされてしまうのだ。
その他、宮城県村田町には、金時の生誕地とされる蝦夷石がある他、長野県南木曽町には金時の足跡石が、長野県八坂村には金時が熊と遊んだ熊穴が、高知県日高村には山姥と暮らした山姥洞や金太郎が投げた大石があるなど、全国各地に金太郎伝承地が点在。金太郎の伝承地同士の交流を推し進める動き(金太郎サミット)まで、活発に進められるほどの賑わいを見せているのだ。
藤原道長に仕えた最強の近衛兵・下毛野公時がモデルだったのか?
ともあれ、源頼光に見出されたのは、天延4(976)年、金時20歳あるいは21歳の時のこと。頼光四天王として活躍し、永祚2(990)年、35歳の頃に酒呑童子なる鬼を退治したのだとか。『今昔物語集』には、賀茂の祭(葵祭)を見学しようと、牛車に乗り込んだものの、車に酔ってふらふらになり、見学どころでなかったとの滑稽な話まで伝えられている。
その後の動向は不明ながらも、寛弘8(1012)年、九州の賊を征伐するためとして筑紫へ向かう途上、勝田(岡山県勝央町)に差し掛かったところで熱病にかかり、頼光らの介護の甲斐もなく、亡くなってしまったという。享年55(57歳とも)であった。村人たちがその武勇を称え、剛勇との意を表す倶利加羅(くりから)権現と称し、祠を建て祀った。それが、明治時代に改築され、名も改められた粟柄神社である。
驚くことに、その子孫とされる方もおられるとか。所は富山県大沢野町薄波。名は公時であるが、近江国での戦いに敗れて、越中の山奥の薄波に逃れたという。その地に、代々公時を名乗る方が、今も住んでおられるというのだ。
そういえば、『今昔物語集』では、公時の名で登場するが、公時といえば、藤原道長に近衛兵(随身)として仕えていた人物として、下毛野公時という名の武人がいたことが思い出される。最強の近衛兵とも語られる人物であったが、寛仁元(1017)年、享年18で死去したとされる。もしかしたらこの公時が、金時伝説のモデルになったのではないか? その可能性も捨てきれないのだ。