日清戦争の功績で渋沢栄一に感謝状が贈られていた
史実から振り返る今週の『青天を衝け』
12月12日(日)放送の『青天を衝け』第39回「栄一と戦争」では、清に続き、ロシアとの戦争へ突き進む日本において、渋沢栄一(吉沢亮)が果たした役割が描かれた。また、旧主の名誉を回復させるべく、伝記編纂事業が動き出している。
伝記事業を機に実業家の引退を決意する

神奈川県横須賀市の三笠公園に建つ東郷平八郎の銅像。東郷は日露戦争の主要作戦を指揮。日本海海戦でバルチック艦隊を破ったことは、世界中に驚きとともに伝えられた。
1902(明治35)年6月、栄一はセオドア・ルーズベルト大統領(ガイタノ・トタロ)と会見するため、アメリカを訪れていた。大統領が政府関係者ではなく、一民間人と接見するのは、異例中の異例のことであった。
帰国後、栄一のもとに陸軍参謀次長の児玉源太郎(萩野谷幸三)が訪ねてくる。源太郎は、朝鮮半島を手中に収めようというロシアの脅威に対抗すべく、栄一に財界を取りまとめてほしい、と依頼してきた。戦争に気乗りのしない栄一だったが、決死の形相で「今は危急存亡のときです!」と迫る源太郎に気圧され、やむなく協力を承諾する。
1904(明治37)年2月、ついに日露戦争が勃発。戦費確保に奔走していた栄一は、ある日、病に倒れた。時を経るごとに栄一の容態は悪化。いよいよ死の危険が迫ってきた時、旧主・徳川慶喜(草彅剛)が栄一を見舞う。栄一の後継者としての重圧に苦しむ渋沢篤二(泉澤祐希)と、起き上がるのも困難な、死を覚悟した様子の栄一の姿を見た慶喜は言う。
「生きてくれ。生きてくれたら、なんでも話そう」
こうして、かねてより栄一から申し出のあった自身の伝記編纂を、慶喜は了承した。
慶喜の言葉を契機に、奇跡的に回復した栄一は、歴史学者や当時を知る幕臣を集め、編纂事業を開始。折しも、その頃の日本は、日露戦争に勝利はしたものの、賠償金を放棄したことで不満を抱いた国民の暴動が相次いでいた。そんな日本の状況と、鳥羽伏見の戦いから遁走(とんそう)した慶喜の「隠遁は私の最後の役割だったのかもしれない」との言葉を重ね合わせた栄一は、日本のためにすべき自分の役割を考えた。そして、栄一は篤二に告げた。
「私は近く、実業界を引退する」
伝記編纂の相談相手は、二人の娘婿だった
1893(明治26)年6月11日の『時事新報』に、福沢諭吉は次のようなことを社説として発表している。
「天下一人として日本の実業社会に渋沢栄一あるを知らざるものなきに至らしめたるこそ非常の栄誉なれ」
これに続き、福沢は「もし明治政府の一員と実業社会の第一人者とではどちらが名誉かと尋ねる者がいたら、私は後者だと即答する」とまで書いて、渋沢の人格や事業を褒め称えている。
渋沢の回想によれば、福沢と親しくなったのは日清戦争の時だったという。二人は戦争を前に話し合いの上で一致団結し、福沢は『時事新報』を通じて国威発揚(こくいはつよう)に貢献し、渋沢は企業を回って寄付金を集めた。
戦後、時の大蔵大臣である渡辺国武は、日清戦争の勝利を「是れ実に先生の賜なり」として、渋沢に感謝状を贈っている。
日清戦争はやむにやまれぬ戦と考えていた渋沢だったが、日露戦争については「反戦」の態度をとった。ドラマでも触れられているが、この時、再三にわたって渋沢のもとを訪ねたのが児玉源太郎だった。児玉は実業界が開戦に賛成するよう、渋沢を説得している。説得に訪れたのは児玉のみではない。最終的に渋沢を「開戦論」に導いたのは、山県有朋(やまがたありとも)のようである。なお、福沢諭吉は1901(明治34)年2月に病没しているので、日露戦争には関与していない。
今回のドラマでは渋沢が病に倒れ、一時重篤となっている。実際に療養生活に入ったのは、日露戦争開戦の前年である、1903(明治36)年11月のこと。この時、渋沢は神奈川県小田原市の国府津(こうづ)で静養している。
ところが、いざ開戦となると、医師から面会を禁じられていたにもかかわらず、東京から第一国立銀行の重役を呼び寄せ、いかに軍事公債が重要であるかを懇々と熱弁していたという。もともと発症したのは中耳炎だったが、療養中にも仕事をしていたためか、肺炎を併発。重態に陥った。
回復はしたものの、長年務めてきた東京商業会議所の会頭を1905(明治38)年に辞任している。後進に道を譲るため、としているが、なおも休養を必要とする状態だったため、という理由も決して小さくなかったようだ。
さて、今回は慶喜の伝記編纂事業が動き出している。
そもそもは1893(明治26)年に渋沢と福地源一郎(犬飼貴丈)とが発案したもので、執筆については全面的に福地に任せるつもりだった。ところが、福地が多忙につき、思うように進まなかった。そればかりか、1904(明治37)年には福地が代議士となり、ますます執筆どころではなくなってしまった。さらに、1906(明治39)年には福地が病没してしまう(『徳川慶喜公自伝』)。
編纂が遅々として進まず、困り果てた渋沢が相談した相手は、長女・歌子(小野莉奈)の婿である穂積陳重(ほづみのぶしげ/田村健太郎)と、次女・琴子(池田朱那)の婿である阪谷芳郎(さかたによしろう/内野謙太)だった。彼らが提案したのは、専門の歴史家に委託するのがよい、ということ。二人とも法学者という性格上、自伝に客観性を持たせることを重視したのである(『実験論語処世談』)。そこで、それまで福地が書き進めていたものをいったん白紙に戻し、一からやり直すこととなったのだった。つまり、福地の手による幻の自伝が存在していたことになる。
自伝の編纂事業が再開したのは、1907(明治40)年のことだった(『徳川慶喜公自伝』)。渋沢は、こう述べている。
「最初福地氏に依頼した儘で若し成功したならば、或は頼山陽の日本外史の如き、文学的感情的の歴史となつたかも知れぬが、今度の編纂方法は(中略)公平に史実を精査し、其史実の指示する所に従うて、中正な意見を以て之を記述し、(中略)極めて正確なる考証的の歴史となり(中略)所謂天下の公論であると、一般の人が見て呉れるであらうと思ふ」(『徳川慶喜公自伝』)
主君の名誉を挽回させることが起点だったとはいえ、史実に忠実であろうとしたことは、実業家である渋沢の性格にふさわしいと考えられるし、娘婿たちの助言も的確だったといえるだろう。